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甲子園&高校野球・トリビアの蔦 THP blog・甲子園特集

[81〜100]甲子園80年Part2&夏の中継トリビア [1〜20] [21〜40] [41〜60] [61〜80]
[81]甲子園で早慶戦が行われたことがある
 早慶戦といえば、早稲田大学と慶應義塾大学による大学野球伝統のカードで、1903年の初対戦以来、実に100年以上に渡り東京六大学野球などで激闘を繰り広げてきた。そんな早慶戦が甲子園で行われたことがある。
 38年、「国民精神作興体育大会関西大会」というスポーツイベントが開かれるにあたり、甲子園での早慶戦開催を目玉にして、観客動員アップを図ろうとした。しかし、早慶戦は当時の東京の大イベント。特に26年に神宮球場ができてからは他の球場で開かれたことがなく、両校関係者の反対も根強かった。
 甲子園側は当時の球場長と佐伯達夫氏(のちの高野連会長)が直接東京へ出向き、両校の有力関係者を3週間かけて説得。この結果、史上初の“甲子園の早慶戦”が同年11月20日に実現。観衆は驚異の10万人で、それでも入りきれないほどの人出だったという。
【補足トリビア】
(1)この試合は7-4で慶應が早稲田を破った。
(2)高校野球における早稲田系列校(早稲田実など)と慶應系列校(慶応など)による“早慶戦”はまだ甲子園では実現していない。

[82]甲子園で歌舞伎が行われたことがある
 甲子園では野球以外に数多くのイベントが行われてきた。有名なところでは全日本スキージャンプ大会(1939〜40年)だが、ここでは甲子園で開かれた歌舞伎公演を紹介する。
 スキージャンプ大会が開かれた39年の8月26・27日の2日間、6代目尾上菊五郎一座が甲子園で歌舞伎公演を行った。舞台は外野グラウンドに設置し、客は外野席で舞台を観覧。夕暮れ時の公演だったので、たいまつを焚いて舞台を明るくしたという。
 舞台装置にはお金がかけられ、役者が演じる舞台「所作台」は1.8m×0.9m×12mmのヒノキ板を70枚も敷き詰めた本格的なものだった。しかし両日とも客が少なく、公演は大赤字だったという。
【補足トリビア】
(1)6代目尾上菊五郎は明治から戦前にかけて活躍。タップダンスを取り入れるなど新進的な歌舞伎にも取り組み、名優と呼ばれた。
(2)菊五郎は野球も好きで、24年に自分の野球チーム「巨人軍」を作っている。(読売ジャイアンツとは関係ない。大リーグのニューヨーク(現サンフランシスコ)・ジャイアンツから取ったもの)
(3)ヒノキの所作台は戦後の米軍接収時、シャワー室に行くための渡り廊下板に転用された。

[83]甲子園で高校サッカーが行われたことがある
 高校野球の選手の合言葉は「めざせ甲子園」。しかし、一時期はサッカー選手の合言葉も「めざせ甲子園」だった。高校サッカーもかつて、甲子園で開かれたことがあるからである。
 高校サッカーこと全国高等学校サッカー選手権大会は、「日本フートボール大会」という名称で1918年にスタート。野球やラグビー同様、サッカーももともとは関西での開催で第1〜5回は豊中、第6・7回は宝塚で開かれていた。そして、25年の第8回から甲子園が会場になった。
 甲子園は外野でサッカーやラグビーができる広さが十分にとられており、キャパも含めて開催は全く問題なし。当時まだまともな練習場がなく、甲子園の芝生の上でのプレーは選手にとても好評だったという。甲子園では4年間(1回は大正天皇崩御のため中止)開かれ、29年からは新設の甲子園南運動場に熱戦の場所を移した。
【補足トリビア】
(1)戦後は西宮球技場や長居競技場で開かれ、現在の首都圏開催・国立霞ヶ丘競技場での決勝が行われるようになったのは76年(第54回)から。65年にそれまで主催だった毎日新聞社が撤退して、71年から新たに日本テレビが主催になった影響が大きい。
(2)高校サッカーの第1回はラグビーとの2部門式で行われた。このときのラグビー部門が現在の全国高校ラグビー大会。

[84]甲子園でJリーグの試合が行われたことがある
 [83]で甲子園での高校サッカーを紹介したが、それだけではない。甲子園ではJリーグの試合も行われたことがある。もちろんJリーグなのでつい最近の話である。
 1994年2月19日、Jリーグプレシーズンマッチ・ガンバ大阪×ヴェルディ川崎(現東京)の試合が甲子園で行われた。グラウンドは外野部分を利用したが、それだけでは足りないので、内野の土の部分に2m×30cmの芝生を1500枚敷き詰めた。2塁ベース付近まで芝が敷かれたという。試合は2-1でガンバが勝った。また、96年にも同じカードのプレシーズンマッチが甲子園で行われている。
 当時、キャパシティの大きいサッカー用のスタジアムが日本には国立競技場など数えるほどしかなく、このような野球場を利用した試みが各地で行われた。しかし2002年のワールドカップ開催の影響で、5万人収容のサッカー用スタジアムが各地に建設されたため、現在はわざわざ野球場を使う必要はなくなった。
【補足トリビア】
(1)東京ドームや横浜スタジアムでもJリーグの試合が行われたことがある。
(2)スコアボードでのメンバー表示はチーム欄に1人分(横書き)使うことで、10人分(DH時の投手欄含む)と合わせて全員表示することができた。

[85]第1回甲子園ボウルはボクシングと並行して行われた
 サッカーとくればアメリカンフットボール。甲子園ボウルは冬の甲子園の風物詩となっている。その第1回はボクシングとの並行で行われた。
 1947年、大阪毎日新聞社は東西のリーグを制した大学が日本一をかけて争う、新しいアメフトの大会を企画した。当時本場アメリカでは、すり鉢型の球技場でアメフトを行なうのが主流だったので、新大会の会場は甲子園に白羽の矢が立った。試合は4月13日。さっそく甲子園に問い合わせをすると、この日はボクシングの試合があるという。西宮球場にも問い合わせたが、アメフトなら隣の西宮競技場を使ってほしいと言われてしまった。さあどうしよう…。
 しかし、そのとき甲子園から「ボクシングは内野で午後4時からなので、それまで外野を使うならいい」という連絡が。こうして第1回甲子園ボウル(バウル)・慶大×同志社大は午後1時にキックオフされた。4時には終わる予定だったが試合が延びてしまい、第4クォーター途中でボクシングも開始のゴングが鳴った。記念すべき第1回はボクシングとのダブルタイトルマッチという形になった。試合は45-0で慶大が勝ち、初代大学日本一に輝いた。
【補足トリビア】
(1)第1回甲子園ボウルの観衆は700人。ボクシングの観衆の方がはるかに多かったという。
(2)翌年第2回は元日開催。12月開催で固定されたのは65年の第20回大会から。
(3)2007〜08年は甲子園改修のため別会場で実施される。

[86]甲子園にマリリン・モンローが来たことがある
 歴史と伝統を誇る甲子園。過去数多くの有名人が甲子園に来たが、あのマリリン・モンローも甲子園に来たことがある。
 モンローは1926年アメリカ生まれ。『七年目の浮気』『お熱いのがお好き』などのヒットで世界のセックス・シンボルとして人気を得たが、62年に多量の睡眠薬服用により死去。現在でもその生涯は伝説として語られている。
 モンローは54年、当時の夫ジョー・ディマジオがプロ野球セ・リーグの共同コーチとして招かれた際、新婚旅行を兼ねて来日した。ディマジオが2月15・16日に甲子園で阪神タイガースのコーチをしたとき、同伴したモンローも甲子園の土を踏んでいる。
 あくまで野球のキャンプだったのだが、甲子園にはスポーツ記者よりも芸能記者のほうが多く、阪神の選手もディマジオに指導を受けたことよりも、モンローに会えたことの方が嬉しかったとか?
【補足トリビア】
(1)モンローとディマジオはこのとき3週間日本に滞在。しかし、日本でのあまりのモンロー人気にディマジオが嫉妬。結婚わずか9ヵ月での離婚の原因の一つになった。
(2)モンローは日本滞在中に胃けいれんを起こし、故浪越徳治郎に指圧を受けて回復。浪越はモンロー滞在中計7回指圧治療した。

[87]甲子園の外野の芝は2種類ある
 甲子園の外野に広がる緑の芝生。天然芝全盛の中、あざやかな自然芝のじゅうたんが甲子園を彩っている。そんな甲子園の芝、実は2種類が植えられている。
 もともと甲子園にはティフトンという芝が植えられていて、6〜11月ごろは緑の芝生を見せてくれるが冬場は枯れてしまい、センバツのときなどは茶色くなっていた。センバツも緑の芝でやれないものか。グラウンドを管理する阪神園芸は、ゴルフ場など冬でも緑の芝が生えている所などを研究した上で、「ウインターオーバーシード」つまり夏芝の上に冬芝の種を蒔く二毛作が良さそうだということが分かった。
 1982年の秋にティフトンが生える芝生の上に、ペレニアルライグラスという冬の寒さに強い芝の種を蒔いた。冬、ティフトンが枯れるのと入れ替わりに、ペレニアルライグラスの緑の芝が外野を覆ってくれた。芝生の二毛作の成功は日本初だった。この2種類の芝の連係プレーが、甲子園の外野を一年中緑に染めているのである。
<参考ページ>中ラマの芝生挑戦記(中年ラガーマン随筆日記)
【補足トリビア】
(1)甲子園は完成当初は芝生はなく、2年後に生えてきたクローバーなどの草が芝の代わりだった。1929年に高麗芝を張りつけたのが本格的な芝の登場。
(2)ウインターオーバーシードは現在、万博陸上競技場や花園ラグビー場などの競技場でも行われている。

[88]甲子園の蔦も2種類ある
 芝とくれば蔦。甲子園の外壁を覆いつくす蔦は、特に葉が生い茂る夏にその偉容を感じさせてくれる。そんな甲子園の蔦も2種類が植えられている。
 甲子園に初めて蔦が植えられたのが、完成した1924年の12月。蔦がからまるラインの古城の雰囲気を出したかったのと、塗装の手間を省く(甲子園は突貫工事で作られたため、コンクリートの壁が剥き出しだった)ためだった。戦争で一度は焼け落ちたものの、現在は430株が植えられ葉の面積は畳8000畳分と、甲子園の外壁をほぼ完全に覆っている。
 甲子園の蔦は大部分がブドウ科のツタ(ナツヅタ)だが、球場正面の7・8号門付近は北側で、阪神高速の高架もあり日当たりが悪いので、その条件でもよく育つウコギ科のキヅタ(フユヅタ)が植えられている。甲子園駅から歩いて正面に見える側だけに、キヅタのフォローは欠かせないのである。
【補足トリビア】
(1)甲子園のレフトスタンド外の阪神園芸では甲子園の蔦の苗が販売されている(夏のみ?)
(2)甲子園には蔦にあやかった喫茶店「サロン蔦」(マスコミや職員専用)、レストラン「リエール(フランス語で蔦)」(中央ボックス席・グリーンシート(中央特別自由席)スタンド下)もある。

[89]グラウンドの水たまりを解消する必殺技は杭打ち
 甲子園のグラウンドの水はけのよさは日本一、いや世界一と言っていいかもしれないが、大雨が降るとさすがに土のところに水たまりができてしまう。しかし、甲子園は水たまりにも強い。“杭打ち”という必殺技があるからだ。
 甲子園のグラウンドには土が30cm、その下に火山砂利が20cm、さらにその下には「ぐり石」という人間の頭〜こぶし大の石が50cm、という三層構造になっている。さらに甲子園はかつて川の三角州部分だったところ([1]参照)で、現在も地下には伏流水が流れ、自然の排水溝のような役割を果たしている。つまり、水たまりを伏流水の層まで流し込めばしめたものである。
 まず、水たまりの部分に直径3cmほどの鉄棒を、ぐり石の層に達するまで打ち込む。次に木づちで棒を振るう。このときの振動によってぐり石の隙間にある目詰まりがなくなるので、そこから水がどんどん伏流水へ流れ込み、あっという間に水たまりが消えてしまうのである。
【補足トリビア】
(1)普段は雨のときはビニールシートを覆うので、杭打ちは試合中一時的に大雨が降ったときしか使わない。
(2)芝の部分の雨対策はたばこの太さほどの穴を5cm間隔で深さ10cmほど空け、そこに砂を詰め込んでおく。雨のときはこの穴から地下へ流れこむそうだ。
(3)近年では雑巾大の吸水シートも使われている。

[90]甲子園でまかれる水はしょっぱい
 試合前、甲子園のグラウンドにはたっぷりの水がまかれる。乾いたグラウンドが水によって黒くなることによって、熱戦の舞台が整えられる感じだ。ところでこの水、実はしょっぱい。
 甲子園でまかれる水は水道水ではなく、甲子園だけで使っている井戸水である。さらに甲子園は海に近いので、この井戸水には塩分が含まれている。要するにしょっぱいのである。
 ではこのしょっぱい水をグラウンドにまくとどうなるのか。相撲の土俵に塩をまくと土が固く引き締まるのと同じように、グラウンドもビシッと固く引き締まる。これにより、ゴロの打球速度が速くなり、またボールも弾みやすくなるという。高校野球の選手たちは特にこの感覚をすぐにつかむのが大変なので、エラーが起きやすくなってしまうのはある程度は仕方がないのである。
【補足トリビア】
(1)井戸水はトイレにも使われている。そのため、一部のトイレでは手洗いの蛇口の水は飲用禁止になっている。

[91]ラジオ中継が始まった頃 横に放送を遮断できる人がいた
 ここからは高校野球とメディア関係のことをいくつか。甲子園のラジオ放送が始まったのは第13回夏の大会(1927年)から。当時は実況アナの横に遮断器を持った人がいて、いつでも放送を止めることができた。
 JOBK(現在のNHK大阪放送局)は前年に1日あたり約20回にも渡る甲子園速報をしたのが好評だったため、この年ネット裏最前列にマイクを設置。連日甲子園から実況生中継を行った。これが日本初のスポーツの実況生中継だった。
 一方、当時放送内容はすべて逓信省(現総務省)の検閲を受けることが法律で定められていて、ニュースはもちろん、舞台などでも台本を事前に逓信省に提出しなければならなかった。もちろん実況中継も例外ではない。しかし、見たままを喋る実況中継は事前の検閲ができない。
 そこで甲子園では大阪逓信省の係官2人が実況アナの横に待機した。係官は放送遮断器を携帯。放送内容を常にチェックして、不適切な内容があれば即座に遮断できるようにした。実際どの程度遮断されたかは不明だが、実況アナは違う意味でも緊張してマイクの前に立っていたのである。
【補足トリビア】
(1)JOBKは26年からの甲子園の実況中継を計画していたが、阪神電鉄側から「甲子園に客が来なくなる」と拒否されたため、1年開始が遅れた。
(2)当時はニュースや市況を挟みながらの細切れ中継で、最長1時間55分から最短は5分という枠で放送していた。33年に第2放送ができて細切れは解消された。

[92]甲子園の決勝戦を約30年にわたり実況し続けたアナがいる
 日本初のスポーツ実況となった甲子園の実況中継は、すでに80年近い歴史を誇る。これまで数多くのアナウンサーが実況をしてきたが、その中でもその歴史の半分以上の期間、特に決勝戦を約30年にわたって実況し続けたアナウンサーがいた。
 そのアナウンサーとは元ABC(朝日放送)アナウンサーの植草貞夫。夏の甲子園ファンなら誰もが一度は聞いたことがある名前だろう。植草は1955年にABCに入社。第39回大会(57年)に初めて夏の甲子園の実況を担当し、第42回(60年)には早くも決勝戦の法政二×静岡戦を担当した。
 植草はそれ以降、ミュンヘン五輪(72年)の実況アナとして現地に派遣されたために担当を外れた以外は、第70回(88年)の広島商×福岡第一戦まで毎年テレビかラジオの決勝戦の実況を独占し続けた。実況した決勝戦は29試合。「甲子園の夏は終わりました。もう戦いはありません(第60回)」「甲子園は清原のためにあるのか!(第67回)」といった数々の名文句も生まれた。
 植草は92年に専属キャスターになってからも実況を続け、第80回(98年)の智弁和歌山×豊田大谷戦を最後に夏の甲子園の実況を引退した。初実況から42年目の夏だった。
【補足トリビア】
(1)植草は阪神戦の実況も多く担当していたので、甲子園で最も多くの試合を実況したアナウンサーであることは間違いない。
(2)息子もアナウンサーで、植草結樹はテレビ大阪、植草朋樹はテレビ東京でそれぞれ野球などの実況を担当している。

[93]甲子園の実況を全試合務めたアナがいる
 約30年決勝戦を実況したアナウンサーもすごいが、もっとすごいアナウンサーがいる。なんと甲子園全試合を一人で実況したアナウンサーがいた。
 そのアナウンサーはJOBK(現NHK大阪放送局)の魚谷忠。甲子園初の実況アナである。魚谷は第2回夏の大会(1916年)に市岡中の三塁手として出場。その経験を買われて、入局わずか2年で実況担当に抜擢された。逆に言えば、他に野球を実況できそうなアナが当時いなかったのである。
 そういう事情から魚谷は第13回夏の大会(27年)の全21試合を一人で実況した。当然5日目あたりからは声がかすれがちになったが、ここは気力で乗り切った。しかし、魚谷が一人で全試合を担当したのはこの年だけではない。第8回選抜大会(31年)まで、なんと8季にわたって甲子園の全試合を担当し続けたのである。8季で合計147試合! よっぽど他にできる人がいなかったのだろうか。
【補足トリビア】
(1)魚谷は出場選手と同世代の(旧制)中学生が聞いてわかる放送を心がけ、「そら投げました。あっ、大飛球です。受けました」と丁寧な実況を行った。

[94]ABCテレビの高校野球中継でCMがまったく入らなかったことがある
 ABCテレビの夏の高校野球中継は第39回大会(1957年)の大阪テレビ時代から始まり、今年で50年目を迎える。NHKと違って民放のABCはCMが挿入されるが、そのCMがまったく入らなかったことがある。
 第43回(61年)、ABC中継のスポンサーに湯浅電池がついた。湯浅電池の当時の社長だった湯浅佑一は、アメリカでワールドシリーズの中継を見た際にCMで興をそがれたことと、選手の純粋なプレーをそのまま伝えたいという意向から、中継の始めと終わりに社名スーパーを表示するだけでそれ以外、当然試合中もCMを一切入れなかった。ちなみに放送料は約3000万円だった。
 翌年もスポンサーについた湯浅電池は、やはり試合中はCMなし。試合間のインターバルに、画面下に横ロールでテロップを挿入しただけだった。常識を打ち破るノーCMは視聴者にも大好評。さらにその翌年から第76回(94年)までスポンサーだった住友グループは、イニング間に工夫を凝らした30秒のワイプCMを挿入。それ以降のスポンサーもそれを踏襲するなど、湯浅電池が打ち出した視聴者の興をそがない工夫でNHKに対抗し続けている。
【補足トリビア】
(1)湯浅電池は18年に創業。電池を中心に、近年はクリーンエネルギーにも力を入れている。現在の社名はジーエス・ユアサコーポレーション
(2)湯浅社長は京都一中(現洛北)の野球部主将で、高校野球にも思い入れが深かった。

[95]「速報!甲子園への道」に元テレビ朝日・丸川珠代が出ていた
 丸川珠代といえば、テレビ朝日のアナウンサーとして「ニュースステーション」「スーパーJチャンネル」「朝まで生テレビ!」など報道番組を中心に活躍。2007年に電撃退社して、参院選東京選挙区に自民党公認で出馬。見事に初当選した。そんな丸川は大学時代にABCテレビの「速報!甲子園への道」に出ていたことがある。
 丸川が出演していたのは1991年(第73回夏の大会)。「速報!甲子園への道」は現在でこそキャスターをABCのアナウンサーで固めているが、93年まで女性キャスターはフリーのアナウンサーや大学生を起用していた。当時東京大学経済学部の3年生だった丸川は、女子大生枠で出演したのである。
 丸川はスタジオで予選の試合結果を伝えるのはもちろん、当時は甲子園開幕前日まで放送(94年まで)されていたので、甲子園入りした選手へのインタビューや舞台裏の取材など、約半月の放送期間中エネルギッシュに駆け回っていた。丸川のアナウンサーとしての原点は甲子園だったのである。
<参考ページ>丸川珠代オフィシャルサイト
【補足トリビア】
(1)この年の他の出演者は芦沢誠アナ、中邨雄二アナ(ともにABC)、藤田雪愛。同番組で「君よ八月に熱くなれ」がテーマソングだった最後の年。
(2)丸川の出身高校は大阪教育大学付属池田高校だが、同級生にABCの中濱葉月アナ(現在は別部署に勤務)がいた。
(3)丸川は2004〜06年のマスターズ甲子園(高校野球OBのための甲子園大会)にも司会進行として参加している。

[96]「熱闘甲子園」のテーマ曲を集めたCDがある
 夏の甲子園期間中の夜のダイジェスト番組といえば「熱闘甲子園」。毎年名場面を彩るテーマソングがとても印象的だが、これらの曲を集めたCDが発売されている。
 それが「一番熱かった夏〜熱闘甲子園の歌〜」というCDで、2002年7月24日にエピックソニーから発売されたオムニバスアルバムである。1991年(第73回大会)の浜田麻里『Precious Summer』から2002年(第84回)のAJI『farewell』まで、「熱闘甲子園」の過去のテーマソングや挿入歌10曲をセレクト。レコード会社の枠を越えた名曲の数々が収められている。その中にはオリジナルのCDを入手するのが現在困難になっている曲もいくつか含まれている。
 98年(第80回)から同番組のキャスターを務めている長島三奈のライナーノーツや、収録曲の年の大会を振り返る記録もありボリュームは十分。夏の甲子園の思い出を振り返るのにピッタリの1枚である。(ほとんど宣伝だな…)
<参考ページ>THP「高校野球カルトデータベース」内 ABC高校野球メロディー
【補足トリビア】
(1)「一番熱かった夏〜熱闘甲子園の歌〜」は税込2800円。CD番号はESCL-2321。

[97]東奥義塾×深浦の試合はテレビで生中継されていた
 第80回夏の大会(1998年)の青森大会・東奥義塾×深浦は122-0(7回コールド)。予選最多得点など数多くの記録を生み、また深浦の最後まで勝負を捨てない姿勢が称賛され、のちに教科書にも掲載された伝説の試合である。この試合、実はテレビで生中継されていた。
 この試合を中継していたのはテレビ朝日系列の青森朝日放送。この年同局では1回戦から連日予選を生中継していて、この日は青森県営球場の2回戦を中継していた。この日の第3試合が東奥義塾×深浦戦だったのである。
 試合の詳細は省くが、中継は2回まで進んだところで時間の都合で終了した。この時点ですでに49-0。まさかこの後も点が入り続けるとは思わなかったかもしれないが、運良く中継があったためにこの試合の映像はしっかり残っている。文字通りすさまじい記録である。
【補足トリビア】
(1)この試合で東奥義塾が記録した予選記録は122得点、1イニング39点、86安打、78盗塁、55長打、176塁打など。
(2)深浦は第86回(2004年)青森大会、松風塾をコールドで破り大会初勝利を飾った。

[98]開幕前のイベントにさだまさしが来たことがある
 さだまさしと言えば1973年のデビュー以来、『精霊流し』『関白宣言』『北の国から』など多くのヒット曲を生み出し、また作家や俳優としても才能を発揮しているシンガーソングライターだが、甲子園の開幕前のイベントに登場したことがある。
 さだが登場したのは第70回夏の大会(1988年)。この年は70回の記念大会ということで、開会式前のプレイベントとして「5万人の大合唱」というイベントが行われた。甲子園の観客全員で大会歌『栄冠は君に輝く』を歌おうというもので、このイベントの進行役・指揮にさだと故山本直純が招かれたのである。
 2人は赤く「70」と染め抜かれたTシャツを着て甲子園のグラウンドに登場。得意のユーモアを交えた歌唱指導で観客をうまく乗せ、最初は座っていた観客も次第に立ち上がり、いつしか文字通りの大会歌の5万人大合唱となった。もちろん山本の指揮のもと、さだ自身も大会歌を熱唱。記念大会の幕開けを飾るイベントは大成功に終わった。
【補足トリビア】
(1)さだは大の高校野球ファンで、『甲子園』という曲も作っている。この曲はライブなどで評判がいいらしい。

[99]「甲子園」という名前を息子につけた芸能人がいる
 「甲子園」の名前は全国に浸透しているので、それにあやかって甲子園と名前をつけているものは非常に多い。挙句の果てに、自分の息子に「甲子園」という名前をつけてしまった芸能人がいる。
 その芸能人はダンカン。ビートたけしの弟子・たけし軍団の一員としてバラエティはもちろんのこと、構成作家や俳優としても活躍。熱狂的な阪神タイガースファンとしても有名で、サンケイスポーツにも連日阪神のコラムを掲載している。
 息子に「甲子園」とつけたのは阪神ファンが高じてのものだが、当然親(とくに母方の両親)の反対にあった。しかし、ダンカンは「甲子園がダメならイカンガー(タンザニアのマラソンランナー)とつける」(本人談)と無理矢理「甲子園」を押し通してしまった。甲子園君は現在中学生。この名前を誇りに思うときは…本人次第なのかもしれない。
【補足トリビア】
(1)甲子園君は小学生のころ、阪神が弱かったので「最下位」というあだ名をつけられていた(これもダンカン談)。
(2)甲子園君はダンカンが主宰する劇団「東京サギまがい」の舞台にしばしば参加。2004年には日本テレビの「留学のススメ」でテレビデビューを果たした。

[100]甲子園は日本一の球場である
 ここまで甲子園や高校野球のいろいろなトリビアを紹介してきたが、最後となる100個目のトリビアはこれで締めたいと思う(トリビアじゃないじゃん!と言わないで)。この企画のために甲子園の歴史を掘り起こしてみると、改めて甲子園は日本一の球場だと実感した。
 甲子園も開場80周年を迎え、2005年秋に阪神電車から正式にリニューアルの計画が明らかにされた。「歴史と伝統の継承」がキーワードで、天然芝と土、開放型、外壁に蔦というスタイルは変わらない。一方、架け替えられる銀傘は柱が後退して見やすくなり、通路の拡大など随所にバリアフリーが取り入れられる。07年秋着工で、09年春完成予定。概ねファンの希望に沿ったかたちになり、これなら今後100年、200年と日本一の球場の座は揺るぎそうにないと思う。
 今回の企画は甲子園や高校野球の一側面を紹介したに過ぎないが、これを見て甲子園に足を運んでくれる方が一人でもいればとても嬉しい。長々と紹介してきたトリビアに付き合っていただいて本当にありがとうございました。

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