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甲子園&高校野球・トリビアの蔦 THP blog・甲子園特集

[61〜80]夏の甲子園トリビアPart2 [1〜20] [21〜40] [41〜60] [81〜100]
61 初の春夏連覇を達成した作新学院 エースは春夏で違った
 甲子園で春夏連覇を成し遂げた高校はこれまで5校。その一番最初は1962年の作新学院だが、春夏で違うエースでの快挙だった。
 この年の春(第34回)に出場した作新は、接戦の連続で紫紺の優勝旗を手にした。このときマウンドを守っていたのは、八木沢荘六だった。夏(第44回)も予選を制し、甲子園入りしてさあ開幕、というときに作新ナインに腹痛の選手が続出した。特に、八木沢の診断結果は「赤痢」。開会式の朝に強制隔離となってしまった。
 エースを突然欠いてしまった作新。八木沢の代役は、2番手投手だった加藤斌に託された。その加藤が好投を見せ、打線もまた加藤に刺激されて奮起。やはり苦しい戦いが続いたが、決勝で久留米商を破り史上初の春夏連覇を成し遂げた。
 八木沢は春に延長18回、16回という長いゲームを投げていた。山本部長(当時)は、もう1人エースがいなければ甲子園で勝てないと考え、春が終わった時点で加藤を上手投げから下手投げに変えさせ、徹底的に鍛え上げていた。想定した以上の事態ではあったが、2人のエースがいたからこその春夏連覇だった。
【補足トリビア】
(1)八木沢は早大を経て、東京(現ロッテ)に入団。71勝をあげ、ロッテの監督も務めた。一方の加藤は作新卒業後に中日に入団したが、65年1月3日に交通事故でこの世を去った。
(2)作新の後輩にあたる江川卓は、この当時小学1年生だった。

62 プラカードでおなじみの市立西宮高校が甲子園をジャックしたことがある
 毎年プラカードを持って選手を先導し、開会式に花を添えるのは市立西宮高校の女子生徒。その市西宮の野球部も甲子園に出場し、他の部も加わって甲子園をジャックしたことがある。
 市西宮は1920年、町立西宮高等女学校として開校。その名の通り元々は女子だけで、48年の学制改革を機に、男女共学になった。女子生徒が夏の甲子園の開会式に、プラカードで先導するようになったのは翌49年(第31回)からで、以来半世紀以上にわたり担当し続けている。
 一方、野球部も63年春(第35回)から3期連続出場を果たしている。同年夏(第45回)の開会式では、吹奏楽部がファンファーレを演奏し、女子生徒に先導されて野球部が入場行進、という市西宮が甲子園をジャックしたような光景が見られた。しかも開幕試合に登場。しかし、惜しくも静岡に敗れて「市西宮祭り」は早くも幕を閉じてしまった。
【補足トリビア】
(1)市西宮のプラカード担当は1・2年の女子生徒。毎年希望者が殺到するので、体力や歩き方などを見るオーディションが実施される。以前は身長155cm以上という制限があったが、現在はない。
(2)野球部は64年春(第36回)に2勝して、ベスト8に進出している。

63 4番、エース、キャプテンを大会中欠いたチームが優勝した
 高校野球にはアクシデントが付きもの。しかし4番、エース、キャプテンが大会中入院という巨大なアクシデントを跳ね返して、深紅の優勝旗をつかんだチームがある。
 1964年(第46回)に出場した高知は、初戦の秋田工戦で4番でエース(この試合はライト)の有藤通世が、最初の打席で頭に死球を受け退場。そのまま入院してしまった。この試合は勝ったが、次の花巻商戦でもキャプテンの三野幸宏が死球を受け、やはり入院してしまったのである。
 言わば「飛車角落ち」。しかし、代役エースの2年生・光内数喜を中心に、残る選手が有藤、三野の穴を埋める活躍を見せ、ついに決勝で早鞆を破り、深紅の優勝旗を手にした。その足で有藤、三野が入院する病院へ直行。互いに抱き合いその喜びを一緒に噛みしめた。
【補足トリビア】
(1)この大会ほとんど出場できなかった有藤は、近大からロッテに入団。新人王や首位打者などに輝き活躍。「ミスターロッテ」と呼ばれ、監督も務めた。

64 サヨナラの得点がホームスチールで入ったことがある
 盗塁は見られても、(単独の)ホームスチールはあまりお目にかかれるものではない。しかもそれでサヨナラとなると、もはや奇跡に近い。しかしその奇跡のプレーが、夏の甲子園で出たことがある。
 1967年(第49回)の大宮×報徳学園戦。大宮は2回表に3点を先制。報徳もその裏と8回に計2点を返したが、9回最後の攻撃も2死ランナーなしと、瀬戸際まで追い詰められていた。しかしここから菅原が四球を選び、続く吉田が左中間に3塁打。菅原の代走・岡本が生還して同点、逆にサヨナラの場面となった。
 吉田は100mを11秒で走る俊足の選手。さらに、大宮の金子投手のモーションが大きいのを見た報徳・清水監督は、吉田に「走れ」のサインを出した。打者太田のカウント2-2後の5球目に、吉田はホームスチールを敢行。大宮・和多捕手のミットをかいくぐって、見事にホームイン。大宮ナインもそして観客も、度肝を抜かれたサヨナラの瞬間だった。
【補足トリビア】
(1)この試合は両チーム合わせて、4本のホームランが飛び出した。特に大宮・吉田のホームランは、左中間の最も深いところに飛び込み、木製バット最長距離のホームランと言われている。
(2)報徳は61年夏(第43回)の倉敷工戦での延長6点差逆転とこの試合で、「逆転の報徳」を印象づけた。

65 三沢・太田幸司あてのファンレターは「東北地方太田様」で届いた
 おそらく甲子園史上、最大のアイドルと言えば太田幸司(元近鉄など)だろう。あまりの人気ゆえに、ファンレターは「東北地方太田様」と届いてしまったという伝説がある。
 太田は三沢のエースとして、1968年夏(第50回)から3季連続で甲子園に出場。当時なかなか勝てなかった青森勢の中、3季とも初戦を突破。69年夏(第51回)には決勝に進出し、松山商と延長18回引き分け再試合の末、惜しくも準優勝に終わった。東北勢初優勝の夢、熱投のピッチング、さらにロシア人の母を持つハーフという容貌もあいまって、太田は「コーちゃん」の愛称で、女子高生を中心に国民的な人気を呼んだ。
 当然太田のところにはファンレターが山のように送られ、その数はミカン箱で8箱(ジャニーズと比較してはいけない。太田は当時あくまで普通の高校生!)。中には「東北地方太田様」としか書かれていないのに、ちゃんと届いたファンレターもあったという。青森・東北といえば太田という図式が、いかに浸透していたかを証明するエピソードとも言えるだろう。
【補足トリビア】
(1)鹿児島実・定岡正二(元巨人)も当時、「九州地方定岡様」だけでファンレターが届いたらしい。

66 三沢・太田幸司をイメージした応援歌のレコードがある
 太田幸司のトリビアをもう1つ。1969年(第51回)に準優勝したときに、太田をイメージした応援歌のレコードが、それも2枚作られた。
 まずは『甲子園の星 紅燃える』という曲。発売は70年5月で、歌っているのは川口豊。ジャケットには決勝の松山商×三沢戦の新聞記事が印刷されていて、太田の力投を讃える歌になっている。
 もう1つは『北国のエース』という曲。発売はやはり70年(6月?)で、こちらを歌っているのは上原和夫。ジャケットには太田がピッチングをしている写真も載っている。「♪忘れはしない 忘れはしない 北国のエース」とやはり太田を讃えた歌だ。
 特定の一般人(このレコードが出た時点で太田は近鉄に入団してはいたが)に対する応援ソングはあまり例がなく、しかも複数出ていることから、当時の人気がいかに凄まじかったかが改めて分かる。
【補足トリビア】
(1)『甲子園の星 紅燃える』を歌った川口豊は、現在演歌番組の司会などでおなじみのタレント・夏木ゆたか。
(2)選手をイメージした応援歌はこの他に、東海大相模・原辰徳『奇跡を起せ風雲児』(歌・鈴木しげる)、早稲田実・斎藤佑樹『青いハンカチ』(歌・ワンダーボーイ)などがある。

67 作新学院・江川卓は甲子園を「古くて大したことない」と言った
 太田幸司が甲子園最大のアイドルなら、作新学院・江川卓(元巨人)は甲子園史上最大の怪物と言っていいだろう。江川は作新にいた当時、甲子園を「古くて大したことない球場だ」と言っていた。
 江川は150km/hを超えるストレートを武器に、高校3年間の公式戦で2回の完全試合、7回のノーヒットノーランを記録。甲子園は1973年の春夏に出場。春(第45回)はベスト4に進出。続く夏(第55回)の初戦、柳川商戦は延長15回で23奪三振を記録。しかし次の銚子商戦で延長12回、サヨナラ押し出し四球で敗れ、優勝旗を握ることはできなかった。
 さて、江川の上記の発言は本当なのだが、これは本心ではない。江川は甲子園に憧れていて、実際に甲子園の土を踏んでその広さにも圧倒されている。なぜこんな発言をしたかというと、1つは緊張しないための自己暗示。もう1つは「甲子園がすごいところと言うと、相手チームが江川も大したことないと安心される」からだった。他人の心理を巧みに読んだ発言、こういうところも超高校級と呼ばれた一因なのかもしれない。
【補足トリビア】
(1)江川の甲子園通算成績は6試合で4勝2敗、奪三振92(1試合平均15.3!)、自責点3、防御率0.46。特に73年春(第45回)で記録した大会通算60奪三振は、現在も大会記録。

68 3アウトで終わらず4アウトになったことがある
 ミスジャッジはあってはならないが、高校野球の審判も人間。完全にはなくせない。そんなミスジャッジの中から、「4アウト事件」を紹介する。
 1982年(第64回)の益田×帯広農戦。事件は9回表の益田の攻撃のときに起きた。この回先頭の斉藤が四球(無死1塁)、中村がヒット(無死1・2塁)、宮崎が送りバント(1死2・3塁)、豊田がタイムリーで3塁走者生還。この際、2塁走者はホームでタッチアウトになった。これで2死1塁。金原が2塁フライで、3アウトチェンジのはずだったが…。
 次の打者の池永が打席に入ってしまった。審判や帯広の佐々木捕手など、誰もおかしいことに気付いていない。加藤投手は気付いていたようだが、池永に対して投げ始めた。結局池永は2球目を叩き、3塁ゴロ。記録員に指摘され、審判はやっと間違いに気付いた。スコアボードのアウトのランプが、2死の時点で1個しか点灯されていなかったのが原因らしい(当時のテレビ中継映像でも確認できる)。当然池永の記録は抹消。ミスジャッジを重く見た高野連は、この試合の審判を全員謹慎処分とした。
【補足トリビア】
(1)同じ日の試合で守備妨害があったが、アウトになるべき走者を取り違えてしまい、その走者がホームインしてしまうミスジャッジがあった。このときは、残すべきランナーにホームインの記録を付けかえた。

69 PL学園×東海大山形戦 最後のマウンドにいたのは清原和博
 1985年(第67回)のPL学園×東海大山形戦は、毎回得点の29-7という記録づくめの試合だったのは覚えている人が多いと思うが、その最後のマウンドには清原が立っていた。
 PLの“KK”こと、桑田真澄(元巨人)・清原和博(元西武など)が最後の夏となった初戦のゲーム。PL打線は初回から爆発し、次々と得点を奪っていく展開。結局この試合、PLは毎回得点、最多得点(29)、最多得点打(27)、最多塁打(45)、最多安打(32)、最高打率(.593)、個人最多安打(笹岡6)。両チームでも最多得点(36)、最多安打(41)と数々の最多記録を樹立した試合となった。
 先発した桑田は山形打線を抑え、7回からライトに回った。しかし、そこから山形も意地を見せるて、8回に1点、9回には3番手の小林を打ち込み3点を奪った。なおも1死満塁。ここでPL・中村監督は清原をマウンドに送った。中学時代は清原もエースだった。清原は登板していきなり2者連続で押し出し四球を与えてしまうが、後続を抑えゲームセット。清原はこの試合3分の2回を投げ、打者4人に対し、被安打0、与四球2、奪三振1、自責点0という成績だった。
【補足トリビア】
(1)清原はリトルリーグで完全試合も達成したことがある投手だったが、PLに入学して同じ新入生だった桑田の投球を見て、エースへの夢を断念。バッティングに専念することになる。
(2)この大敗を受けて、山形県は高校野球強化に乗り出し、ついに2004年春(第76回)に東海大山形がベスト8、翌05年春(第77回)には羽黒がベスト4進出を果たした。

70 スコアボードの表記が試合中に変わったことがある
 甲子園のスコアボードは1984年に電光化された現在、右側スコア表示部分の高校名は、原則として3文字しか入らない。高校名が長い場合は略して表示されるが、それが試合途中で変わったことがある。
 1986年(第68回)、4回目の出場を果たした宇都宮工は、初戦で桐蔭(和歌山)と対戦した。スコアボードには3文字しか入らないので、宇都宮工は「宇都宮」と表示されていた。
 ところが、この表示を見た宇都宮工OBがクレームをつけた。宇都宮工は23年に創立。60年以上にわたる歴史があり、地元では「宇工」と呼ばれ親しまれていた。なのになぜスコアボードに「宇工」と出さないのか、というのである。これを受け、試合途中からスコアボードには「宇 工」と表示されるようになった。電光式ゆえの柔軟な対応とも言える。
 しかもスコアボードが「宇 工」となった途端に、劣勢だった宇工打線が火を噴き桐蔭に逆転勝ち。宇工パワーを見せつけた試合となった。
【補足トリビア】
(1)甲子園のスコアボードの校名表記の略し方はあまり法則がなく、3文字の熊本工をわざわざ「熊 工」と略したりしたこともある。
(2)仙台育英は過去「仙育英」「仙台育」「仙 台」の3種類がスコアボードに表記されたことがある。

71 校歌演奏のときに軍艦マーチが流れたことがある
 勝利チームがホームベース前に一列に並んで、校歌を歌いながら校旗を掲揚。そこで軍艦マーチが流れたら誰もが驚くだろう。ところが実際にそれが流れたことがある。
 1968年(第50回)、岩手代表・盛岡一は鮮やかな逆転劇で鴨島商を破り、初戦を飾った。盛岡一の校歌が流れる。大半の人は初めて聞くのに、どこかで聞き覚えのあるメロディ。まさか『軍艦マーチ』!? 観客はもちろん、テレビを見ていた人もびっくりした。
 しかし、これは立派な盛岡一の校歌。話は07年(明治40年)にまで遡る。歌詞は先に作られていて、これにメロディーをつけるときにある生徒が、「こんないい曲がある」と軍艦マーチを持ち込んできた。生徒はもちろん、学校関係者も軍艦マーチとは気付かなかったが、これはいいということで、そのまま採用してしまった。
 盛岡一は盛岡中時代の戦前から甲子園に出場。過去に勝ったことはあったが、当時は勝利チームの校歌演奏がなかったので、このときが校歌初披露となったわけである。盛岡一は次の津久見戦にも勝ち、2度軍艦マーチを甲子園に響かせた。
<関連ページ>盛岡第一高等学校1970年卒業同期会・白亜四五会−校歌と軍艦マーチ
【補足トリビア】
(1)実際の盛岡一の校歌は軍艦マーチよりテンポがかなり遅く、太鼓のリズムだけで演奏されるので、聞き比べると印象はかなり違う。
(2)盛岡一は伝統的なバンカラスタイルの応援でも有名。

72 勝ったのに校歌を歌えず甲子園を去ったチームがある
 甲子園で1勝したのに校歌を歌わせてもらえず、結局そのまま甲子園を去ったというかわいそうなチームが過去にある。もちろん、勝利チームの校歌演奏が始まってからのことである。
 1988年(第70回)の高田×滝川二戦。試合は序盤から滝川二ペースで進み、8回裏2死の時点で9-3とリードしていた。しかし、試合開始から降り続いていた雨がこのとき一層強くなり、試合は中断。11分間の中断の後、コールドゲームで滝川二の勝ちが宣告された(高校野球は7回で試合が成立)。夏の大会では、実に56年ぶりのコールドゲームだった。
 宣告後、挨拶を済ませた滝川二ナインはそのまま甲子園を引き揚げた。大会本部がずぶぬれの選手や応援団の体調を考慮して、1分でも早く帰らせるために、校歌演奏や校旗掲揚を省略したからである。滝川二は次の東海大甲府戦で敗れてしまい、校歌を歌わずに甲子園を去ってしまった。1勝したのにも関わらず、である。
【補足トリビア】
(1)93年夏(第75回)の鹿児島商工(現樟南)×堀越戦も降雨コールドになり、勝った鹿商工の校歌演奏は省略されているが、すでに鹿商工は1度勝って校歌は歌っていた。
(2)この滝川二の降雨コールドでの勝利が、兵庫県勢の夏通算100勝目だった。
(3)この日の「熱闘甲子園」の冒頭、スタッフの計らいで滝川二の校歌が流された。

73 甲子園は兵庫県予選でも使われる
 甲子園は全国の高校野球の選手たちの憧れ。地方予選を勝ち抜いて、ようやく甲子園の土が踏めるが、地元兵庫県の選手はそこまでしなくても甲子園の土が踏める。予選でも使われることがあるからだ。
 甲子園での夏の兵庫県予選(兵庫大会)は、甲子園ができた1924年(第10回)からすでに実施されていた。本大会より一足先に、兵庫県内の選手はできたばかりの甲子園の感触を味わっていたことになる。
 兵庫県内の球場事情や立地(もちろん地元の特権もあるだろうが)もあり、昭和時代までは毎年甲子園が予選で使われていた。平成になってからはあまり使われなくなったが、現在でも秋の近畿大会の会場などになったりしている。兵庫県や近畿の選手はわざわざ遠くまで“野球留学”しなくても、甲子園で野球ができる確率は高いのである。
【補足トリビア】
(1)地方大会ではメンバー表示が省略されることが多いが、甲子園では手書きスコアボード時代でも名前がちゃんと表示されていた記録がある。
(2)予選では土を持ち帰ることはできないが、スコアボード前で記念写真を撮ってもらえる。
(3)最近では2004年(第86回)の兵庫大会で、甲子園が使用されている。

74 深紅の優勝旗 初代の房はボロボロ
初代の深紅の優勝旗  ここからは、夏の最高の栄誉・深紅の優勝旗にまつわる、ちょっと悲惨なトリビアを4つ続けて紹介する。初代の深紅の優勝旗(写真右)は1915〜57年(第1〜39回)まで使用されたが、房の部分がボロボロになっていった。
 初代の優勝旗は「優勝校には日本一の旗を出そう」ということで、当時の天皇旗と同じ素材・織り方で作った「綾錦織」という豪華なものだった。製作費は当時のお金で1500円。現在で言えば1000万円以上に相当する。
 しかし毎年持ち回りすると、優勝旗もあちこち痛んできた。特に痛みが酷かったのは周りの房(正確には「耳」)である。というのも、選手やその父母が房を記念にちぎっていたからである。毎年ちぎられるものだから、あっという間にはげてしまった。戦前に一度房は取り替えたものの、それでも房をちぎる者が後を絶たず、現在保存されている初代の優勝旗に房はほとんど残っていない。2代目の優勝旗は房が綺麗なので、ちぎるのを厳禁にしたものと思われる。
【補足トリビア】
(1)房は関西では「運がつく」、名古屋では「子宝に恵まれる」といういわれがあったらしい。

75 深紅の優勝旗が折られたことがある
 深紅の優勝旗が受難を受けたのは房だけではない。実は柄も折られて取り替えられている。
 1934年(第20回)、エースに藤村富美男を擁する呉港中が、決勝で熊本工を完封でねじ伏せて全国制覇を果たした。優勝した呉港中ナインは地元に凱旋して、ファンの熱烈な歓迎を受けた。駅は人でもみくちゃ。そんな中、藤村がファンの前に優勝旗を掲げようとしたその瞬間…。
 「ボキッ」と鈍い音がした。何にぶつかったのかはわからないが、優勝旗の柄が折れてしまったのである。藤村はじめナインの顔は真っ青になった。その場はなんとか繕ったが、もちろんこのままでは来年返せないので、旗屋に直行して柄を取り替えた。そのため、初代の優勝旗の柄は残念ながら、第1回からのオリジナルではないのである。
【補足トリビア】
(1)藤村はその後阪神で活躍し、「ミスタータイガース」と呼ばれる。一方、決勝の相手だった熊本工のレギュラーには、のちに巨人で活躍する川上哲治がいた。藤村は川上に対し、3三振で封じこめた。

76 深紅の優勝旗が原因でパレードを止められたことがある
 まだまだ続く深紅の優勝旗の受難。今度は優勝旗を持っていたがために、優勝の凱旋パレードを止められてしまったトリビアを紹介する。
 戦後初の大会となった1946年(第28回)は、西宮球場で開催された。この大会は、エース・平古場昭二を擁する浪華商(現大体大浪商)が、大阪勢として夏の大会初優勝を飾った。
 浪華商ナインは決勝戦の翌日、トラック5台に分乗して大阪・梅田から御堂筋を縦断する優勝パレードを行った。ところが、トラックが梅田から2キロほど進んだ本町交差点にさしかかったとき、米軍MPがサイレンを鳴らしてパレードをストップ。浪華商ナインは司令部に連行されてしまった。
 米軍はなぜストップさせたか。原因はトラックに掲げられていた優勝旗。深紅の旗が「赤旗」に見えて、労働者のデモ行進と勘違いしてしまったからである。日本人が見たら絶対デモとは思わないだけに、とんだとばっちりを浪華商ナインは受けてしまった。
【補足トリビア】
(1)平古場はこの大会、準決勝の東京高師付中戦での19奪三振(大会記録タイ)など、大会通算61奪三振の快投を見せた。平古場はのちに慶大から鐘紡(カネボウ)に進み、プロ野球パ・リーグの審判も務めた。

77 深紅の優勝旗が盗まれたことがある
 これまで深紅の優勝旗受難のトリビアを紹介したが、これが極めつけ。あの貴重な優勝旗が盗まれてしまったことがある。
 1954年(第36回)、中京商(現中京大中京)が安定した力を見せて、夏5回目の優勝を飾った。受け取った優勝旗は同校の校長室に飾られ、大切に扱われていたはずだった。ところが、11月末に優勝旗の旗の部分が突然消え、残った旗竿には偽物の旗が取り付けられていた。
 高校野球の選手たちにとって憧れの優勝旗。何が何でも見つけようと、関係者や警察を総動員して捜索に当たったが、なかなか見つからない。ついには、占い師にまで場所を占ってもらう始末。翌年2月、主催者もあきらめて優勝旗の新調を検討し始めたそのとき、同校から600m離れた名古屋市立の中学校の床下から優勝旗が発見された。ナインはすぐ中学校に向かい、85日ぶりとなる優勝旗との感動の再会を果たした。
【補足トリビア】
(1)優勝旗を盗んだ犯人は結局見つからなかった。
(2)この事件が起きてから、優勝校は大事を取って、銀行の金庫に保管するなどの自衛策をとるようになった。

78 甲子園最多優勝を誇る中京大中京には栄光の部屋がある
 [77]では思わぬ災難を受けたが、中京大中京は甲子園最多優勝を誇る超名門校。その証として同校には「栄光の部屋」というのがある。
 中京大中京は戦前の中京商、戦後の中京時代から通じて春夏合わせて50回以上出場し、夏3連覇(1931〜33年)、夏春連覇(37〜38年)、春夏連覇(66年)などを記録。優勝は夏6回、春4回といずれもトップ。勝ち星も2位のPL学園に、20勝以上の大差をつけている。まさに高校野球の超名門校と言っていいだろう。
 同校は野球部以外にも陸上、水泳、サッカーなども強く、数々の賞を受けている。それら優勝旗やトロフィーなどを一堂に集めた、「栄光の部屋」が同校の一角にある。甲子園の優勝旗(レプリカ)10本を含めて、優勝旗だけでも約100本。毎年4月新入生がこの部屋に入るのが慣わしで、先輩が積み重ねてきた歴史をここで体感するという。
【補足トリビア】
(1)同校の野球専用グラウンドには夏3連覇、夏6回の優勝、甲子園100勝をそれぞれ記念した碑が建てられている。
(2)女子フィギィアスケートの安藤美姫、浅田真央も中京大中京出身である。

79 池田の元監督・蔦文也はプロ野球の選手だった
 蔦文也といえば徳島・池田の監督を40年間務め、「やまびこ打線」と呼ばれる豪快なチームを育てあげた名物監督で知られているが、蔦はかつてプロ野球の選手だった。
 蔦は徳島商のエースとして甲子園に3度出場。同志社大に進み、戦後は社会人のオール徳島を経て、1950年にプロ野球の東急フライヤーズ(現日本ハム)に入団した。東急での成績は5試合で10イニングを投げ0勝1敗、被安打21、奪三振3、自責点13、防御率11.70だった。蔦はわずか1年でプロ野球を辞めて、故郷の池田の教諭に赴任。52年春から同校の野球部監督に就任。92年春までの40年間の監督生活で春2回、夏1回の全国優勝など、甲子園通算37勝をあげた。2001年死去。
 現在、元プロ野球選手が高校野球の監督になろうとすると、教員免許を取得した上で、教諭として2年在籍しなければならない。以前までは10年在籍が要件だった。61年の「柳川事件」というプロのアマ選手引き抜きが原因で、プロアマ間の断絶が起こり、特に元プロのアマ側の受け入れが厳しくなったからだ。ここ数年は雪解けムードだが、まだまだ壁は高い。仮に蔦の時代にすでにこのような状態になっていたならば、高校野球の歴史も変わっていたかもしれない。
【補足トリビア】
(1)柳川事件後、初めて元プロ野球選手が高校野球の監督になったのは瀬戸内(広島)の後原富。甲子園にも出場した。
(2)社会人は78年より元プロ野球選手の指導者の受け入れを再開している。楽天監督の野村克也は、2002〜05年まで社会人のシダックスの監督を務めていた。大学野球も引退後1年経てば指導できるようになる見込み。現状では高校野球の元プロの指導が一番制約がある。

80 常総学院の木内幸男は夏も準優勝旗があると勘違いしていた
 木内幸男といえば取手二、常総学院を率いて「のびのび野球」「木内マジック」で通算40勝という記録を残した、高校野球を代表する指導者の一人。そんな名将が、ある勘違いをしていたことがある。
 1984年夏(第66回)、木内は取手二を率いて初の決勝まで進んでいた。決勝前夜、ナインを集めたミーティングで木内は茨城弁でこう話した。「旗は2本あっから、負けて帰ってもカッコつくべ」
 高校野球ファンならすぐ分かると思うが、夏は決勝で負けても準優勝旗はない。話を聞いたあるアナウンサーが決勝当日、その間違いを木内に指摘した。木内は8年前の春に準優勝した小山が旗をもらった記憶から、夏も準優勝旗があると勘違いしていたのである。
 旗が1本しかないことを知った木内は、ナインに「旗1本きゃねぇんじゃ、負けて帰ったらカッコつかねぇべ。勝つっきゃねぇべさ」と叫んだ。ナインは爆笑。しかし、これでリラックスしたのか桑田・清原のいたPL学園を下し、1本しかない旗を初めて茨城県にひるがえしたのである。
【補足トリビア】
(1)常総学院に移った木内はその後、94年春(第66回)に準優勝、2001年春(第73回)には優勝。そして03年夏(第85回)に2度目の夏の優勝。甲子園ですべての種類の旗を手にした。

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