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[41〜60]春のセンバツトリビア [1〜20] [21〜40] [61〜80] [81〜100]
[41]センバツの第1回大会は名古屋で開かれた
 1924年に始まった全国中等学校選抜野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)の記念すべき第1回大会は、名古屋市中区広路町(当時)の山本球場で開かれた。甲子園球場は当時まだなかった。
 主催は大阪毎日新聞社。大阪の会社がなぜ名古屋で大会を行ったのか。理由は中京地区の野球熱が盛り上がっていたこと。もう1つは、当時ほぼ毎年夏の大会を制していた関西のチームが、地元以外の場所でやったらどうなるかを試すためだった。ちなみに優勝は高松商で、関西のチームは3校出場で合計1勝だけだった。
 当初は毎年開催地を変えて行う計画だったが、同年8月に甲子園球場が完成すると、翌年センバツも甲子園で開催し、結局甲子園開催で固定された。現在山本球場跡には団地が建ち並び、92年に建てられたモニュメントがその痕跡を伝えている。
<参考ページ>山本球場(BALL PARK)
【補足トリビア】
(1)山本球場は名古屋初の本格的な球場として22年秋に開設。球場名の由来はスポーツ用品店の店主・山本権十郎が作ったからとされる。
(2)戦後、ノンプロの国鉄名古屋鉄道局が本拠地として使用。国鉄八事球場として親しまれたが、90年代に取り壊された。

[42]かつて第1回大会のホームランはホームランと扱われていなかった
 センバツで第79回大会(2006年)までに飛び出したホームランは604本。しかし少し前までの公式記録にあてはめると、その数は「592本」となる。減った12本は第1回(1924年)に記録されたホームランのことで、参考記録扱いで公式記録から除外されていた。
 第1回の会場だった山本球場はとても狭く、平凡な外野フライでも簡単にフェンスを越えてしまったらしい。正確な距離は分からないが、ホームベースからフェンスまで80メートルもなかったようだ。そのため、第2回(25年)以降の甲子園球場でのホームランとは同列にできないということで、長く参考記録扱いとされていた。
 しかし、88年の第60回記念大会を機にようやく第1回のホームランも公式記録として認められ、旧通算ホームランは「甲子園通算ホームラン」としての記録に変わった。
【補足トリビア】
(1)大会第1号は第1回の高松商・野村栄一。旧大会第1号は第2回の神港商(現市神港)・山下実。
(2)夏の大会の第88回(2006年)現在の通算ホームランは1170本。これには豊中球場5本、鳴尾球場15本、西宮球場13本のホームランも含まれている。

[43]26点を取りながら緒戦で敗退したチームがある
 またまた第1回選抜大会(1924年)の話。昨年の夏に続き出場した横浜商は、大量26点を挙げながら緒戦で敗退している。
 横浜商の1回戦の相手は市岡中(大阪)。試合は13−13の同点で延長に突入。延長に入ってからは一転して点が入らず、両チーム13安打ずつが出た試合は、結局延長14回日没で引き分けになった。
 翌日の再試合はまたも乱打戦。しかし横浜商は2回に大量9点を取られ、反撃も及ばず13−21で敗れた。横浜商は2試合の合計で31安打26得点という記録的猛打を放ったにもかかわらず、緒戦で姿を消してしまった。
【補足トリビア】
(1)この大会に優勝した高松商は全3試合の合計が16得点。第10回(33年)の優勝校・岐阜商は全5試合で合計19得点。これ以外にも合計26得点未満で優勝した高校は数多い。
(2)対戦相手の市岡は2試合で27安打34得点。スケジュールの関係で、この再試合後わずか1時間の休憩で準決勝・早稲田実戦に臨んだが、1点差で敗れて同じ日に姿を消した。

[44]センバツ初のサヨナラホームランは認定ホームラン
 センバツでのサヨナラホームランは過去16本。その一番最初となるアーチを放ったのは第3回大会(1926年)の松本商(現松商学園)・矢島粂安だが、そのホームランは認定ホームランだった。
 2回戦の高松商戦。試合は2-2で延長戦に突入。延長12回裏、松本商は2死1・2塁とサヨナラのチャンスを迎え、“信州のベーブ・ルース”と言われた強打の矢島に打席が回ってきた。ここで矢島はライトの頭を越す大飛球をあげる。当時の甲子園の右(左)中間は128メートル。ライトがボールを追いかけている間に、2人のランナー、さらに矢島までがホームインしてしまった。
 普通ならランニングホームランだが、ここは1点入ればサヨナラの場面。野球のルールでは1点入った時点で試合終了になるため、矢島の記録は本来単打か2塁打になる。しかし当時の審判が、当たりが「普通の球場ならスタンドインするほど」大きかったこと、さらに全員ホームインしたことを加味して、特別にホームランと認定した。センバツ最初のサヨナラアーチはこうして現在も記録に残っているのである。
【補足トリビア】
(1)センバツのサヨナラアーチはその後、第32回(60年)まで34年間出なかった。
(2)矢島は後に早大で活躍。34年のベーブ・ルース来日時の全日本メンバー(のちの巨人)に参加。巨人最初の背番号2をつけた。

[45]かつて試合の速報は野球盤で行っていた
大毎野球競技板(1926)  センバツが始まった当時、中等野球はすでに国民的イベントとなっていた。しかしラジオ中継が始まる以前、試合の結果は球場に直接行く以外は、翌日の新聞でしか知ることができなかった。でも今どうなってるのか知りたい!というファンのニーズに応えて、当時の主催の大阪毎日新聞社はユニークな方法で試合の速報を伝えた。
 それが「大毎野球競技板」(写真右)というものである。現在のイニングスコアや両チームのメンバー表示があるのは当然だが、この競技板の最大の特徴は中心にあるダイヤモンド。ここにランナーの動きや打球の行方までもを表示することができた。まさに“野球盤”。これを甲子園現地からの電話をもとに、ほぼリアルタイムで操作して速報していたのである。なんとなくインターネットでの速報画面のようにも見えるのは偶然か。
 この競技板はまず第3回大会(1925年)に大阪毎日新聞社前に設置。翌年には大阪市内にも設置され、黒山の人だかりができたそうである。ただ、ラジオ中継が第5回(27年)から始まっているので、競技板は比較的早く姿を消したものと思われる。
【補足トリビア】
(1)夏の大会でも同じ年(第12回)から、ほぼ同じ形式の「プレヨグラフ」という名前の競技板を設置して速報している。

[46]センバツの優勝賞品は昔アメリカ旅行だった
 センバツで優勝したらもらえるのは紫紺の優勝旗。しかし、戦前はアメリカ見学旅行というビッグなプレゼントもあった。
 第4回大会(1927年)に、主催の大阪毎日新聞社がメジャーリーグなど本場の野球に触れるとともに、野球を通じての日米親善を図ろうという趣旨のもとに、この年から優勝チームをアメリカに派遣することになった。栄えある第1号は和歌山中。以降関西学院中、第一神港商(2年連続)、広島商がアメリカ行きの切符を手にしたが、32年に政府が野球統制令を出した影響で、優勝校のアメリカ旅行は以降中止になった。
【補足トリビア】
(1)アメリカ旅行は夏休みを利用して行った。7月中旬から9月中旬までの長期に渡り、メジャーリーグの試合の見学や地元高校生との親善試合、もちろん観光もあるという豪華な内容だった。
(2)そのため、夏の大会は控えのメンバーで予選を戦ったのだが(夏の大会の興味をそぐ陰謀という説もあるらしい)、27年夏(第13回)の和歌山中はその控えメンバーで予選を制し、夏の甲子園の土を踏んでいる。

[47]勝利チームの校歌演奏を発案したのはオリンピックメダリスト
 甲子園の定番の1つに、勝利チームの校歌演奏と校旗掲揚がある。甲子園に出場した選手のほとんどは、まず勝ってスコアボード上のポールにひるがえる校旗を見ながら、グラウンド上で校歌を歌うのを目標にしている。
 センバツで勝利チームの校歌演奏・校旗掲揚が始まったのは第6回大会(1929年)からだが、これを発案したのは当時毎日新聞の記者で、一流アスリートでもあった人見絹江だった。
 人見は28年のアムステルダムオリンピックに出場し、女子800m走で日本女子陸上で初となる銀メダルを獲得。オリンピックでは金メダルの選手の国の国歌が流れ、上位3位までの選手の国の国旗が上がる。これを実際に表彰式で体感した人見が、その感激を甲子園でもと提案して、翌年からさっそく採用された。ちなみに校歌演奏第1号は八尾中だった。
【補足トリビア】
(1)人見は女子短距離走の世界記録を独占するほどの、まさに伝説のアスリートだったが、31年に24歳の若さでこの世を去った。
(2)人見は同じくオリンピックよりヒントを得て、各校の入場行進のプラカードによる先導も発案。同じ年から採用されている。
(3)夏の甲子園での勝利チームの校歌演奏・校旗掲揚は、センバツより遅れること28年、57年の第39回大会から始まった。

[48]センバツは日本で初めて背番号を採用した
背番号(1931)  野球選手のもう1つの名前とも言える背番号。選手を認識しやすくするため、各選手に番号を割り振り、ユニフォームの背中につけるのは野球規則でも定められている。この背番号を日本で初めて公式に採用したのは、なんとセンバツだった。
 背番号を世界で最初に採用したのは、1929年のニューヨーク・ヤンキース。それからわずか2年後の31年、センバツの第8回大会でも背番号を試験的に採用した(写真右)。これが日本で初めての背番号の登場である。当時ヤンキースは打順ごとに番号を割り振ったが(3番打者のベーブ・ルースは背番号3)、センバツでは割り振り方は不明である。
 このときは試みで終わってしまい、翌年から再び背番号は消えたが、52年の夏の大会(第34回)にポジション別背番号が登場。翌春の第25回選抜大会でも採用されて現在に至っている。
【補足トリビア】
(1)結成したばかりの巨人が、35年の渡米時に漢数字の背番号をつけたのは有名だが、31年のセンバツではアラビア数字をつけていた。
(2)31年に常総学院の総監督・木内幸男が生まれている。

[49]1県から4校選抜されたことがある
 センバツの特徴の1つに「1県から複数のチームが出られる」というのがある。1県1代表(東京・北海道は2代表)しか出られない夏の大会と違い、実力さえあれば、1県から2校や3校出場できる柔軟性もセンバツの魅力と言ってもいいだろう。最高は4校出場で、過去に2回ある。
 まず第10回大会(1933年)の和歌山県。和歌山中(現桐蔭)、海草中(向陽)、海南中、和歌山商の4校が選ばれた。この年は32校出場で、8分の1が和歌山のチームということになる。成績は計5勝。
 もう1つは第14回(37年)の愛知県。中京商(現中京大中京)、東邦商(東邦)、享栄商(享栄)、愛知商(愛知)の4校が選ばれた。この年は20校出場だったので、なんと5分の1を愛知のチームが占めたことになる。成績は計6勝。いずれのケースもその県が最強を誇った時期で、また選考も当時地域ごとではなかったことが、4校出場という思い切った選考になったものと思われる。期待に応えられたかどうかは微妙だが…
【補足トリビア】
(1)過去センバツで1県3校選抜されたのは17回。そのうち戦前が12回を占めている。また第19回(47年)は、京都と和歌山から3校ずつ選抜されている。
(2)第77回(2005年)から一般選考枠は1県2校までとなった。21世紀枠・希望枠があるが、事実上1県4校出場は不可能となった。

[50]開会式の入場行進に4年続けて同じ曲が流れたことがある
 センバツの華の一つと言えば開会式の入場行進曲。毎年前年のヒット曲が演奏されて、その変遷はそのまま時代の流れを映し出している。
 4年連続で行進曲になったのは、「陽は舞いおどる甲子園…」で1992年まで親しまれた2代目大会歌。第11回大会(34年)のときに制定され、その年から第14回(37年)まで開会式で使われた。なぜ4年連続で使われたかは不明だが、同時期に夏の大会の行進曲が作られていたので、この大会歌で固定させるつもりだったのかもしれない。
 ただ、翌年からは戦時体制を反映して『愛国行進曲』などの軍歌が使われ、以降2代目大会歌が行進曲になることはなかった。
<参考ページ>歴代センバツ行進曲(スポーツニッポン)
【補足トリビア】
(1)初代大会歌は第8回(31年)に制定。その年の行進曲にもなったが、歌詞に「オール日本」「ヤング日本」というダサい横文字が使われたのが当時の世情に合わず、この年だけで使われなくなった。
(2)同じ曲が2回以上使われたのは、2代目大会歌と第42・45回(64・67年)の『世界の国からこんにちは』の2曲だけ。

[51]別所毅彦はセンバツで骨折しながら投げ続けた
 別所毅彦といえば南海−巨人で投手として活躍して通算310勝。1999年に亡くなるまで、「ガハハ」と笑っていた解説者として覚えている方も多いだろう。
 別所は滝川中のエースとして、第18回大会(41年)に出場。その2回戦の対岐阜商戦、1点をリードされた滝川が、9回表に相手のエラーに乗じて同点。なおも勝ち越しのランナーだった別所も、一気にホームを狙うがタッチアウト。このときの交錯プレーで、別所は左腕を骨折してしまった。別所は右投げとはいえ、致命的な負傷。しかも、まだ裏の守りが残っていた。
 ところが、別所は続投を申し出る。他に代わりの投手がいなかったからだ。左腕を包帯で縛って、延長に入っても投げ続け、3回3分の1を無失点で投げきった。しかし、延長12回途中でさすがに交代。結局、岐阜に延長14回サヨナラで敗れた。このときの別所の悲壮な投球に、マスコミは「泣くな別所、センバツの花」と賞賛したが、当然今では考えられないことである。
【補足トリビア】
(1)別所はこのとき左手にグラブははめず、下手投げ一本の投球。捕手からの返球も、ゴロでしか受けられなかった。しかし、岐阜打線はバントなどピッチャー返しのバッティングはあえてしなかった。
(2)「泣くな別所、センバツの花」はもともと、大阪毎日新聞神戸版の「泣くな別所、選抜の花だ」という見出し記事が最初。いつしか微妙に変化して、上記のフレーズの方が有名になってしまった。

[52]センバツ存続の危機はわずか2文字をはずして逃れた
 長い歴史を誇るセンバツにも存続の危機はあった。第2次世界大戦での中断もそうだが、最大の危機は終戦後に迎える。しかしその危機は、わずか2文字をはずすことで乗り越えることができた。
 終戦後、当時日本を占領していたGHQ(連合軍総司令部)の民間情報教育局は、センバツの再開に難色を示していた。中等野球の全国大会は夏だけで十分と考えていたからである。このときは佐伯達夫らの尽力で、1947年に「1回限り」という条件で第19回大会が開かれ、センバツは6年ぶりに復活した。佐伯らは翌年もセンバツをやる気満々だった。
 翌年、GHQは上記の理由を盾に首を縦に振らない。そこで、佐伯らは当時「全国選抜中等学校野球大会」と称していた大会名から「全国」の2文字をはずして、さらに4月からの学制改革に合わせて「第1回選抜高等学校野球大会」と一見別の大会に見える妙案を出して、この大会を無事継続させた。名を捨て実を取ったアイデアが、センバツを危機から救ったのである。 
【補足トリビア】
(1)佐伯は市岡中、早大で活躍。戦後、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟)の立ち上げに携わり、のちに高野連会長に就任。80年、87歳で没。
(2)学制改革で一度リセットされた大会回数は、55年の第27回から通算で数えられるようになった。

[53]決勝戦だけテレビ中継がなかった大会がある
 1959年4月10日、第31回大会の決勝戦・中京商(現中京大中京)×岐阜商(現県岐阜商)。東海地区の古豪同士、しかも3年前と同じ決勝のカードとなったこの試合は、3-2という僅差で3年前と同じく中京商が勝ち、3度目の優勝を飾った。しかし、この試合はテレビで中継されなかった。もちろんテレビ中継はすでに始まっていた時代で、この年も初日から準決勝までは中継されていたのにも関わらず、である。
 理由は同じ日に行われた、皇太子さまと正田美智子さん(現天皇・皇后両陛下)の結婚式。この国民的巨大イベントのため、この日は朝から晩までNHKも民放も特番体制をしき、特に皇居から東宮御所へのパレードでは100台以上のカメラ、1500人以上のスタッフ、2350万円の制作費を投入して全区間実況中継するという熱の入れようだった。
 もともと決勝は8日に行われる予定だった。しかし雨のため2日順延してしまい、決勝がこの日にあたってしまった。決勝がちょうどパレードの時間帯だったどころか、甲子園にあったテレビカメラもパレードに持って行ってしまったため、最初から中継のしようがなかったのである。決勝はNHKラジオ第2のみの放送だった。
<参考ページ>テレビがメジャーになった日(テレビCM史研究拠点)
【補足トリビア】
(1)この結婚式をテレビで見ようと、テレビを購入する人が殺到。NHKのテレビ受信契約数は200万台を突破。実際にパレードをテレビで見た人は1500万人と言われている。
(2)民放は日本テレビとKRテレビ(現TBS)の2系統の体制で放送(すでに開局していたフジテレビは日テレ、日本教育テレビ(現テレビ朝日)はKRテレビとの共同制作)。このときの取材協力体制がテレビネットワークの元になった。

[54]第36回大会の優勝投手はジャンボ尾崎
 ジャンボ尾崎こと尾崎将司と言えば、日本プロゴルフ界の第一人者。ツアー優勝112回、賞金王14回、生涯獲得賞金約25億円はいずれも日本歴代1位の記録を誇り、今もなお現役で活躍しているプレイヤーである。
 尾崎は高校時代は徳島・海南(現海部)のエース。センバツには第36回大会(1964年)に出場。初出場ながら前評判は高く、順調に決勝まで勝ち進んだ。決勝の相手は、こちらも初出場の尾道商。第1回を除けば、これが初めての初出場同士による決勝戦となった。
 試合は尾道が6回裏に2点を先制したが、海南は7回に1点、8回に尾崎のタイムリーで同点、そして9回にスクイズで勝ち越した。9回裏、海南は2死満塁のピンチを迎えるが尾崎が後続を断ち、初出場初優勝の快挙を成し遂げた。
【補足トリビア】
(1)尾崎はその年西鉄にドラフト1位で指名され、その後外野手に転向したが、芽が出ず67年に退団。プロゴルファーに転身した。ちなみに弟の健夫もやはり、徳島海南のエースからプロゴルファーになっている。
(2)徳島海南はその年の夏は予選で敗れ、以降も甲子園には出場していないため、通算成績は5勝0敗の勝率10割。勝率10割の甲子園出場校は他に三池工(65年夏優勝)しかない。トーナメント式で勝率10割を残すには優勝しかないので、ある意味珍記録と言える。

[55]センバツのテレビ中継をテレビ東京が放送していたことがある
 センバツのテレビ中継は1954年にNHKが、57年に大阪テレビ(のち59年にMBS(毎日放送)が引き継ぎ現在に至る)がそれぞれ開始して、お茶の間に球児の熱闘を伝えてきた。そんなセンバツ中継を、かつてテレビ東京が放送していたことがある。
 テレビのネットワークの歴史に詳しい人ならご存知だと思うが、かつて関東と関西はTBS−ABC(朝日放送)、NET(日本教育テレビ=現テレビ朝日)−MBSのネットが組まれていて、さらにMBSが東京12チャンネル(テレビ東京の旧社名)の株主だった関係で、12ch−MBSという“マイクロネット”も組まれていた。
 そのような関係から、12chは開局の翌年である65年(第37回)からMBSのセンバツ中継をネットしていた(69年は除く)。12chは当時赤字経営で、自社製作番組のコンテンツも不足していたため、この中継は好都合。67〜68年頃は、朝から夕方までほぼ完全中継されていたこともあった。
 しかし、75年4月1日にTBS−MBS、NET−ABCというネットワークの変更(いわゆる腸捻転解消)がなされたために、12chはMBSとの関係が途絶え、この日にネットされた中継を最後に、12chではセンバツ中継は放送されなくなった。
【補足トリビア】
(1)NETも59〜62、64、69年にMBSのセンバツ中継をネットしたことがある。また、12chはABCの夏の甲子園中継をネットしたこともある。
(2)TBSは76〜78年にMBSのセンバツ中継を決勝のみネットしたが、それ以降は放送していない。

[56]センバツの選考をめぐり裁判沙汰になったことがある
 センバツの出場校は、各都道府県高野連から推薦を受けた高校の中から、選考委員会が戦力などを比較検討して決定する。その出場校の選考をめぐっては毎年のように議論が起きているが、それが裁判沙汰にまで発展したことがあった。
 1969年、秋の都大会は日大三が優勝、帝京商工が準優勝だった。都高野連は第42回大会(70年)の選考にあたり、日大三と商工を推薦したが、商工が火災で野球部の資料を焼失してしまい、選考委員会は戦力分析が十分にできないとして商工を選考から外した。結局出場を決めたのは、日大三と都大会4位の堀越だった。これに商工が異議を唱え、高野連・佐伯達夫会長(当時)に対して大阪地裁に出場の確認を求める仮処分を申請した。
 商工の言い分は「成績が下の堀越が出場する」ことというよりは、「推薦を受けたのに出場できなかった」方が主だった。推薦した側の都高野連は、それは違うとして申請を取り下げるよう勧告したが、商工は拒否。一時対外試合禁止処分になる騒ぎにもなったが、結局地裁は商工の申請を却下。「選考委員会の選定で初めて出場権が発生する」ということが確認され、以降は同じようなケースは起きていない。
【補足トリビア】
(1)帝京商工はのちに帝京大高に校名を変更。現在硬式野球部はない。

[57]表彰のとき演奏される『栄光』はオイルショックが起きて作られた
 センバツの開・閉会式で表彰のときに演奏される曲は『栄光』という、センバツオリジナルの曲である。この曲はオイルショックが起きたために作られた。この出来事とどういう関係があるのか。
 それまではセンバツでも、表彰式の定番曲『勇者は還りぬ』を使っていた。この曲は元々、アラブとの戦争に勝って凱旋するユダヤの戦士を称えるという曲だった。1973年に起きたオイルショックのとき、この曲を使ったらアラブに嫌われて石油を売ってくれなくなるかもしれないと心配して、急遽オリジナルの曲を作ることになった。明らかに過剰反応だが、当時は国中がパニック状態だったために、このような事態を招いたようだ。
 そうして生まれた曲が『栄光』で、第46回大会(74年)に初登場した。最初は1年だけの予定だったそうだが、好評だったので演奏され続け、今やセンバツに欠かせない曲になった。しかしオイルショックがなければ、この名曲は存在すらしなかったのである。
【補足トリビア】
(1)『栄光』を作曲したのは元大阪市音楽団長の永野慶作。第19回(47年)からセンバツの開・閉会式に携わり、第31回(59年)の『皇太子のタンゴ』をはじめ、現在まで数多くの歴代行進曲の編曲を担当している。2007年現在、78歳だが現役バリバリである。
(2)『栄光』は毎年センバツの時期に、その年の入場行進曲と一緒にCDで限定販売されている。詳しくは毎日新聞社まで。

[58]開会式の日にセンバツ出場が決まったチームがある
 センバツの場合、約2ヵ月前に選考委員が出場校を決定するが、開会式の当日になって出場が決まったというケースが1度だけあった。もちろんこれは、出場辞退に伴うものだった。
 開会式当日に出場が決定したのは、第47回大会(1975年)の佐世保工。その日の早朝に門司工が出場を辞退したため(その3日前に同校生徒が起こした刑事事件の責任を取るため)で、九州地区補欠校の佐世保工が代替出場することになった。
 当然佐世保工は開会式に間に合うはずがなく、入場行進は欠席。翌日関西入りして、門司工が使用していた宿舎に宿泊。その翌日に門司工が対戦する予定だった静岡商と対戦したが、準備不足は否めず4-7で敗退して、佐世保工の短すぎる春は終わった。
【補足トリビア】
(1)門司工はその後甲子園出場の機会がなく、現在は豊国学園と校名を変えている。

[59]前橋・松本稔の完全試合 最後の打者はスコアボードに名前が出なかった
 1人のランナーも出さない完全試合。甲子園の高校野球で初めて達成したのは、第50回大会(1978年)の前橋・松本稔である。その試合の最後のバッターとなったのは比叡山の時田英樹だったのだが、そのときなぜかスコアボードには時田の名前は出なかった。
 1回戦の比叡山戦、松本は打たせて取る投球で相手打線を翻弄。1人のランナーも出さずに9回2死までこぎつけた。追い詰められた比叡山は、吉本義行に代え背番号13の時田を代打に送ったが、スコアボードは吉本の名前が出たまま。時田は松本の初球、この試合の78球目を引っかけてしまいピッチャーゴロ。史上初の完全試合はここに達成された。
 当時のスコアボードは手動式。選手の名前が書かれた看板を入れ替えるのにも時間がかかり、しかも初球で凡退してしまったために、結局間に合わなかった。「出なかった」というよりは「出せなかった」という方が正しかったのかもしれない。
【補足トリビア】
(1)完全試合は松本の後に、第66回選抜(94年)に金沢・中野真博が江の川戦で達成している。夏はまだ達成者はいない。
(2)松本は後に監督として第69回夏の大会(87年)に中央を、そして第74回選抜(2002年)に母校を甲子園に導いている。2回とも惜しくも初戦敗退。

[60]センバツ歴代優勝校の看板は大会の真っ最中に消えた
 かつてセンバツ名物の一つだった、外野フェンスにずらりと並ぶ歴代優勝校の看板。第9回大会(1932年)から設置され、1枚ごとに校章と校名を大きく描き優勝校の栄誉を称えていた。しかし、第56回(84年)の1回戦・高島×佐賀商。佐賀商の中原康博が放ったレフトへの大きな飛球が、この名物の運命を変えることになる…。
 中原の打球はホームランの判定。しかも満塁ホームラン。ところがこの打球は、ワンバウンドでフェンスに入ったもの(つまりエンタイトルツーベース)だった。このときは抗議もなかったので、判定は変わらずに試合終了。しかし、後に審判がミスジャッジを認めるという前代未聞の事態になった。
 誤審はボールが白地の歴代優勝校の看板と重なって見えにくかったためとされ、その日のうちに撤去。翌年以降も復活することなく、センバツ名物はあっけなく62年の歴史に幕を閉じた。
【補足トリビア】
(1)外野フェンスの一番センター寄りにあった「第○回選抜高等学校野球大会」「日本高等学校野球連盟・毎日新聞社」の看板も白地だったが、翌年からは緑地に変わり現在に至る。
(2)同様の看板が高校サッカー時の国立競技場に「今大会出場校」という形であったが、やはり数年前に廃止された(理由は違う)。
(3)ただ、第56回時点で看板のサイズを細くしても、なお外野フェンスにびっしり取り付けられていたので、ラッキーゾーン撤去あたりのタイミングでどちらにしても廃止されたのではないかと思う。

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