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甲子園&高校野球・トリビアの蔦 THP blog・甲子園特集

[21〜40]夏の甲子園トリビアPart1 [1〜20] [41〜60] [61〜80] [81〜100]
[21]豊中球場はフェンスの代わりにロープを張っていた
 記念すべき夏の第1回大会(1915年)と第2回大会(16年)の会場である豊中球場は、外野フェンスの代わりにロープを張っていた。
 綿畑だったところに作られた豊中は13年5月1日に完成。140m×150mで約2万平方mの広さがあった。一般的な小中学校のグラウンドより少し大きい程度でしかないが、これでも当時関西随一の野球場で、全国中等学校優勝野球大会の第1回と第2回はこの豊中で開催された。
 ところが豊中は外野フェンスがなく、この大会のときは両翼とセンターのところに鉄の棒を打ち込み、そこにロープを張ってフェンス代わりとした。ロープをノーバウンドで超えたらホームランということになる。距離は両翼80m、センター100mもなかったらしい。
<参考ページ>豊中球場(BALL PARK)
【補足トリビア】
(1)豊中には他に木造のスタンドがあり、よしずを張り巡らせて涼しく観戦できるようにしていた。
(2)豊中は22年に閉鎖され住宅街に変わった。88年に完成した「豊中球場メモリアルパーク」が跡地であることを伝えている。

[22]鳴尾球場は競馬場の中にあった
 第3回(1917年)から第9回(23年)まで、夏の大会は鳴尾球場で開かれていたが、この球場は競馬場の中にあった。
 当時の会場だった豊中はグラウンドが狭く、最寄りの箕面電軌(のちの阪急宝塚線)の観客輸送力も貧弱だったため、中等野球の盛況に早くも応えられなくなってしまった。箕面電軌のライバルだった阪神電鉄は、新会場を誘致するため鳴尾競馬場に目をつけた。
 阪神は鳴尾競馬場のトラック内の土地を競馬場から借り受け、そこに陸上競技場のトラック、さらにその中に野球場を2面作った。収容人数は仮設の木造スタンドながら、5000人で豊中の5倍。さらに2面あることで試合を効率よくこなすことができた。この結果、第3回からは鳴尾で開催。以後7年間、中等野球の舞台として熱戦が繰り広げられた。
<参考ページ>鳴尾球場(BALL PARK)、地図は[1]参照
【補足トリビア】
(1)2面並行で試合が行われるときは片方の試合が白熱すると、もう片方の試合を見ていた観客が仮設スタンドを移動させて観に来ることがあった。
(2)鳴尾は甲子園完成とともに閉鎖。競馬場は戦時中航空機の工場になったが、現在は浜甲子園団地になっている。93年、団地南隣の公園の一角にモニュメントが建てられた。

[23]優勝チームに腕時計がプレゼントされたことがある
 夏の大会の優勝チームの賞品といえば深紅の優勝旗、優勝盾、そしてメダルだが、昔は腕時計などの優勝賞品があった。
 記念すべき第1回大会(1915年)。この年優勝した京都二中ナインにはそれぞれ優勝メダルと腕時計が、学校には大辞典と50円(現在の価値で約25万円)の図書券が贈られた。この他にも準優勝チームには英和中辞典が、初戦を突破したチームの選手には万年筆1本がそれぞれ贈られた。
 しかし文具中心とはいえ、学生の大会で賞品を贈るのはおかしいという意見が出て、賞品はこの1回限りで廃止。翌年からは選手個人には、優勝メダルと参加章、さらに大阪名物「粟おこし」が贈られた。
【補足トリビア】
(1)優勝盾がいつから贈られるようになったかは不明だが、戦後すぐではないかと推測される。

[24]第2回夏の大会に早くも外国人選手が出場している
 近年は外国籍の選手が甲子園の土を踏むことが多くなってきたが、その第1号は第2回夏の大会(1916年)にまでさかのぼる。
 この年、東京代表で出場した慶応普通部(現慶応)のジョン・ダン選手が、中等野球初の外国籍選手である。ダンはアメリカ国籍で一塁のレギュラー。2番を打っていた。外国人という物珍しさからか、観客の注目を一身に浴びていたという。夏の大会のスターの草分けと言っていいかもしれない。
 慶応普通部はこの年優勝。ダン自身は大会4試合で17打数3安打と活躍したとは言い難いが、優勝メンバーとしての栄誉を手にすることができた。
【補足トリビア】
(1)高校野球の選手登録に国籍制限はなく、卒業を目的として在校していれば出場するのに問題はない。極端に言えばベンチ入り18人すべて外国人ということも可能である。
(2)第75回選抜大会(2003年)から4季連続出場した東北・ダルビッシュ有(現日本ハム)はイランと日本の二重国籍だった。

[25]かつて夏の大会には敗者復活があった
 予選から完全トーナメント方式(一部地区でリーグ戦で予選をしたケースはある)で、負けが許されないはずの夏の大会で敗者復活のルールが採用されていたことがある。
 敗者復活は第2・3回大会(1916・17年)に採用されていた。第2回では初戦敗退した6校の中から、抽選で中学明善(現明善)と鳥取中(現鳥取西)が復活。敗者復活戦に勝った鳥取中は、準決勝で市岡中と戦ったが4-5で敗れた。
 第3回は初戦敗退した6校の中から4校が抽選で敗者復活。敗者復活戦を行ない、愛知一中(現旭丘)が制した。愛知一中はその勢いで準決勝、決勝と勝ち優勝。さすがに「1回負けたのに優勝するのはおかしい」という異論が出て、次の第5回(第4回は中止)で敗者復活制度は廃止されてしまった。
【補足トリビア】
(1)愛知一中のキャプテンは大会前のミーティングで「敗者復活でも決勝を勝ったら優勝か」と主催者に確認している。
(2)第2回も他のチームが2勝でベスト4なのに、敗者復活チームは敗者復活戦の1勝だけでベスト4に進めるという変な組み合わせだった。
(3)第9回(1923年)予選でも、当時最強を誇った和歌山中(現桐蔭)に1回戦で敗れたチームは復活できるというルールを採用したことがある。

[26]大会開催のかわりに茶話会が開かれたことがある
 第4回夏の大会(1918年)は米騒動のために大会は中止になったが、そのかわりに開かれたのはなんと茶話会だった。
 この年の米の不作〜米価上昇をきっかけ起こった米騒動は、中でも「米を買い占めて価格を上げている」という風評で、当時の大企業だった鈴木商店に矛先が向けられ、数千の群集が押し寄せて焼き討ちなどの被害にあった。この年予選を勝ち抜いた全国14代表校は大阪入りしていたが、この騒動のために8月14日に大会の延期を発表。このとき、大阪朝日新聞本社で選手の茶話会が開かれた。
 その鈴木商店の本社は、当時の中等野球の会場である鳴尾球場に近かった。周辺の治安が悪化するなど、とても大会が開ける状態ではなく、結局16日に大会の中止を決定。この夏の選手たちは苦しい予選を勝ち抜いて、結局やったのは茶話会だけという可哀想なものだった。
【補足トリビア】
(1)この年の代表校は一関中、長岡中、竜ヶ崎中、慶応普通部、長野師範、愛知一中、京都二中、和歌山中、市岡中、関西学院、広島商、鳥取中、今治中、中学明善の14校。
(2)この大会を北野中(大阪)グラウンドで非公開で開催する案もあった。

[27]優勝チームの場内一周を拒否したチームがある
 優勝チームが深紅の大優勝旗を持って場内を一周する。選手誰もが憧れる名誉あるセレモニーを拒否したチームがあった。
 第5回夏の大会(1919年)、兵庫代表の神戸一中(現神戸)は初戦で強豪・和歌山中(現桐蔭)を逆転で破ると、その勢いで優勝。地元兵庫勢にとって初の深紅の優勝旗が渡り、場内一周のセレモニーが行われるはずだった…。
 ところが神戸一中は「われわれは見せ物ではない」と言って場内一周を拒否した。もちろん長い大会の歴史の中でも唯一のケース。主将だった来田信朗は後に「ただ母校のためにやっただけという気概を示したかったが、若かったのですね」と当時を振り返っている。

【補足トリビア】
(1)神戸一中はその後何度か出場しているが、優勝はできなかったのでついに場内一周をやることはなかった。

[28]甲子園の土を初めて持ち帰ったのは川上哲治
 負けて甲子園を去るときに、記念に土を持ち帰る。今や甲子園では必ず見られる風景だが、その一番最初はのちに巨人で活躍した川上哲治だった。
 第23回夏の大会(1937年)、熊本工のエースだった川上は吉原正喜(のち巨人)とのバッテリーで決勝まで勝ち進んだ。川上自身は3年前の第20回にも決勝に進んでいるが、そのときは呉港中に敗れ準優勝に終わっている。今回は準々決勝でその呉港中を倒しての決勝である。
 しかし決勝では、エース野口二郎を擁する中京商(現中京大中京)を打ち崩せず1-3で敗れ、またしても川上は準優勝に終わった。この試合後、川上は甲子園の土をユニフォームのポケットに入れ、母校のグラウンドに撒いたという。これが甲子園の土を初めて持ち帰った最初のケースである。
【補足トリビア】
(1)甲子園の土を持ち帰ったのは第31回(49年)の小倉北(現小倉)・福島一雄投手が準々決勝で倉敷工に敗れたときに持ち帰ったのが最初という説もある。このときの写真が新聞に載り、翌年から選手たちが真似して定着した。

[29]開会式に野球以外のスポーツ選手がいたことがある
 甲子園の開会式は当然野球部の選手だけが登場する。しかし、一度だけ開会式に他のスポーツ選手が一緒にいたことがある。
 戦時体制真っ只中の1940年、この年の夏にいくつかの競技大会が合体して「紀元二千六百年奉祝・全日本中等学校体育競技総力大会」を開催。第26回大会はこの大会の野球部門として開かれた。
 会場は甲子園一帯のスポーツ施設で開催され、開会式では甲子園に全競技の選手が集結。野球、陸上、水泳、体操、テニス、軟式テニス、バスケットボール、バレーボールの8種目、計2200人の選手が甲子園に集まった。この大会自体はこの年限り。夏の大会も翌年が予選途中で中止になったので、実質戦前最後の大会となった。
【補足トリビア】
(1)開会式は時代ゆえに戦時色が濃く、宮城遙拝(皇居の方向に向かって礼をする)や英霊への黙祷などが行われた。
(2)この大会に徳島商のエースとして元池田監督・故蔦文也が出場したが、他の競技と一緒の開会式に「甲子園の実感がわかなかった」と語っている。

[30]戦時中に夏の大会が行われたことがある
 夏の大会は第27回大会(1941年)の予選途中で中止。戦争で5年中断して、第28回(46年)西宮球場で復活…ということになっているが、実は戦時中に「夏の中等学校野球大会」が開催されたことがある。
 1942年、当時の文部省は学生の夏休みを利用して、野球など10種目の「全国中等学校体育総力大会」というスポーツ競技の大会を計画。野球は全国で予選を開催して、勝ち抜いたチームが甲子園で本選、と夏の大会と全く同じ方式だった。このため、当時の夏の大会の主催だった大阪朝日新聞社は、「大会回数の継承」「優勝旗の使用」を文部省に申し入れたが拒否された。
 「全国中等学校練成野球大会」として開かれたこの大会は、全国から16代表校が出場。徳島商が決勝で平安中を延長11回サヨナラで下して優勝した。平安中は日程の関係で、午前中に準決勝を戦っての決勝が不運だった。この大会は現在も夏の大会の回数には含まれていない。
【補足トリビア】
(1)この大会の特別ルールに「打者は球をよけてはいけない。よけて当たっても死球にはならない」という、今と全く逆のいかにも戦時下らしいルールがあった。
(2)優勝した徳島商には一枚の賞状だけ(のちに「智仁勇」という字が入った織)が渡されたが戦争で焼失。77年に改めて文部省から賞状と優勝盾が贈られた。当時の文部大臣は海部俊樹。

[31]大学野球でピッチャーだった選手が出場したことがある
 大学野球で現役バリバリで投げていたピッチャーが中等野球に出場? そんな不思議な出来事が起きたことがある。
 第6回夏の大会(1920年)、豊国中(現豊国学園)のエースとして小方二十世が出場した。小方は青山学院中等部から法政大学に進学。投手として大学野球リーグ戦(のちの東京六大学野球)にも登板していた。そしてこの年の春から豊国に転校して夏の大会に出場したのである。
 当時の選手規約ではその学校に在籍していて、学校長が代表選手と認めればどんな選手でも出場できた。豊国は中等野球で勝つために、わざわざ大学からOBでもない小方を呼んできたものと思われる。昨今論議を呼んでいる“野球留学”のまさに先駆け。しかし、大学野球出身エースを擁した豊国は、初戦で鳥取中(現鳥取西)に敗れてしまった。
【補足トリビア】
(1)この問題を受けて、第8回(22年)から年齢制限や、転校時は2学期以上在籍しないと出場できないなどの出場選手資格の改正が行われた。

[32]春と夏の覇者による決戦試合が行われたことがある
 春と夏、年2回ある高校野球の全国大会(他にも国体や明治神宮大会もあるが)。この両者の覇者による決戦試合が行われたことがある。
 1927年、この年は春(第4回)は和歌山中(現桐蔭)、夏(第13回)は高松商がそれぞれ制した。夏も和中は出場したが、この年から始まった春優勝チームのアメリカ遠征([46]参照)のために主力選手は出場しておらず、和中は初戦で鹿児島商に敗れていた。
 そこで「主力の揃った和中と高松商、どっちが強いのか日本一を決めよう」という声があがり、同年11月6日に大阪・寝屋川球場で両チームによる決戦試合が行われた。球場はこの一戦見たさに超満員。試合は7-4で高松商が勝ち、文字通りの“日本一”に輝いた。
【補足トリビア】
(1)56年の第11回秋季国体でも春優勝の中京商(現中京大中京)、夏優勝の平安の直接対決があり、2-1で中京が勝っている。この年は兵庫県での開催だったので甲子園で行われた。

[33]開会式前日に出場を決めたチームがある
 夏の大会はおおむね本大会1週間前に全代表校が出揃う。まれに荒天で3〜4日前までずれこむことはあるが、それが前日までずれこんだことがある。
 第24回大会(1938年)の兵庫大会開幕直前の7月3日〜5日、台風とそれに刺激された梅雨前線が阪神間を直撃。3日間の総雨量が461.8ミリ、1時間の最大雨量が60ミリを超え河川はすべて氾濫。流木や岩塊を交えた土石流が市街地に流れ込み泥の海と化した。死者は616人。いわゆる“阪神大水害”である。
 この影響で予選もなかなか開くことができず、ようやく開幕したのは本大会開幕10日前の8月3日。すでに代表校が決まっていた地域もあった。そして決勝で甲陽中(現甲陽学院)が滝川中を破って代表校に決まったのが、なんと開幕前日の12日だった。このため甲陽中は予選で汚れたままのユニフォームで参加。しかし、即本大会で緊張感を持続できたのかベスト4まで進出した。
【補足トリビア】
(1)このときの甲陽中のエースが別当薫。阪神−毎日(現ロッテ)で活躍し、長く毎日や大洋(現横浜)の監督を務めた。
(2)阪神大水害の様子は谷崎潤一郎の小説『細雪』に詳しく書かれている。

[34]地区代表校が2回も変わったことがある
 夏の大会では不祥事などで代表決定後に出場を辞退するケースはほとんどない。しかし代表校が辞退、さらに代わりの代表校も辞退して代表校が2回変わったことがある。
 第25回大会(1939年)の東京大会。決勝で帝京商(現帝京大高)は日大三中を下し初の東京代表の座をつかんだ。しかし帝京商は選手登録をしていない選手、しかも高等小学校(中等学校の一つ下、現在の小学校)の選手にユニフォームを着せてベンチ入りさせていたことが発覚した。これにより帝京商は代表を辞退。準優勝の日大三中が東京代表になった。
 ところが、日大三中も選手資格違反を犯していた。同じような違反なので日大三中も辞退せざるを得ず、結局準決勝で帝京商に敗れた早稲田実が東京代表として甲子園に出場した。日大三中はともかく、甲子園行きを逃した帝京商は結局それ以降も甲子園の土を踏むことはできなかった。
【補足トリビア】
(1)このとき帝京商のベンチに入っていた高等小学校の選手は、のちに中日で活躍しフォークボールを初めて投げた杉下茂。
(2)帝京商は第27回(41年)の東京大会でも優勝したが戦争のために予選で打ち切り。帝京商工時代の69年の秋季東京大会でも準優勝したが、翌春のセンバツに出場できず訴訟を起こすなど([56]参照)、甲子園には徹底的に縁がなかった。現在同校には硬式野球部自体がない。

[35]ラッキーゾーンは高校野球のときは取り外されていた
 甲子園球場の名物の一つだったラッキーゾーン。高校野球でもラッキーゾーンによる悲喜劇がいくつも生まれたが、当初高校野球のときにはこのラッキーゾーンは取り外されていた。
 甲子園にラッキーゾーンが取り付けられたのは47年5月26日。プロ野球の試合でホームランが増えれば盛り上がるというのが理由だった。これにより両翼は91メートルまで狭まり、実際ホームランの数は増えた。
 しかし高校野球は話が別で、大会時はラッキーゾーンをわざわざ取り外して、従来どおりの広さで行われていた。ただ、ラッキーゾーンをつけたり外したりするのは手間と時間がかかったため、第31回夏の大会(49年)からラッキーゾーンをそのままにして開催することになった。この結果前年よりホームランが倍以上の9本も生まれ、高校野球でもホームランの醍醐味が堪能できるようになった。なおラッキーゾーンは92年3月に撤去された。
【補足トリビア】
(1)ラッキーゾーンは49年10月のサンフランシスコ・シールズ来日時にも取り外されている。
(2)5月26日は「ラッキーゾーンの日」とされている。

[36]土佐が優勝を逃したのは深紅の優勝旗がちらついたから
 第35回夏の大会(1953年)、土佐はあと一歩のところで松山商に敗れ準優勝に終わったが、その原因は「優勝旗がちらついたから」だった。
 土佐は強豪ひしめく南四国予選を制し初出場。初戦の金沢泉丘戦で13盗塁という大会記録を作って大勝すると、浪華商(現大体大浪商)、中京商(現中京大中京)という強豪を撃破し決勝に進出。空谷秦投手を擁する松山商との決勝でも2-1とリードし、9回表の松山も2死と全国制覇まであと1人のところまで来ていた。
 このとき、土佐の選手には深紅の優勝旗がちらついていた。脳裏にではなく、実際に目の前に優勝旗があったのである。当時、大会本部はネット裏にあり、閉会式の準備もそこで行われていたので、優勝旗も選手の視界に入るベンチ横に置いてあったのである。勝ちを焦った土佐は空谷に同点打を許し(強風で内外野の中間に落ちる不運な当たりではあったが)、結局延長13回で敗れてしまった。
【補足トリビア】
(1)土佐は当時創部4年目。初陣であわや優勝の大活躍に「優勝旗のない優勝校」と呼ばれた。
(2)このときの優勝投手である空谷はプロ入りのとき入札で球団を選んだため、松山商が1年間の対外試合禁止処分になる事件が起きている。

[37]年齢制限を超えて出場した選手がいる
 1922年より設けられた年齢制限。現在は該当年度の4月2日時点で満18歳以下と定められている。しかし、この制限を超えながらも特例が認められ、甲子園に出場した選手がいた。
 その選手は米子東のエースだった長島康夫。敗戦後、長島は外地からの引き揚げが遅れて、しかも父親が行方不明。第38回夏の大会(1956年)時には19歳になっていて、本来予選にすら出られない状況だった。
 しかし、この特殊な事情を重く見た高野連は、予選1ヵ月前に「引き揚げ者の特例」を設けて長島の出場を許可。長島は予選を突破して甲子園へ。大会一番の注目を浴びる中、長島は甲子園でも好投を見せベスト4に進出。惜しくも準決勝で県岐阜商にサヨナラで敗れたが、甲子園のスタンドからは惜しみない拍手が贈られた。
【補足トリビア】
(1)長島はその後、社会人の富士製鉄広畑(現新日鉄広畑)に進み都市対抗野球などで活躍した。
(2)第71回選抜大会(1999年)に出場した明徳義塾・森岡エーデル次郎も、帰国子女のため大会出場時には19歳になっていたが、特例で出場した。
(3)中学卒業後、1年以上何らかの事情で高校に進学できなかった選手に関しては、満19歳以下でも出場資格が得られる場合がある。

[38]勝利チームの校旗が途中で止まってしまったことがある
 第39回大会(1957年)から夏の大会でも、勝利チームの校歌演奏と校旗の掲揚が行われるようになったが、その校旗が止まってしまったことがある。
 その試合は開幕試合の坂出商×山形南戦。つまり記念すべき第1号である。試合は雨でノーゲームになった翌日再試合が行なわれ、坂出商が4-0で勝利。坂出商ナインはホームベース前に整列し、校歌が演奏される中、校旗が上げられようとしたが…
 坂出商の校旗がスコアボードに顔をのぞかせたところで、それより上にいかない。ロープがからまってしまったのである。その状態のまま校歌の演奏が終わり、ナインは残念な表情でベンチに引き揚げた。しかしやり直しで校旗は無事にセンターポールに掲揚。タイミングはずれたが、ナインもにっこりして甲子園を後にすることができた。
【補足トリビア】
(1)センバツでは29年の第6回大会からすでに、校歌演奏と校旗掲揚のセレモニーが行われていた。([47]参照)
(2)現在は試合開始時に両チームの校旗を上げた後、7回にいったん下げ、勝ったチームの校旗が改めて上がっている。

[39]延長18回引き分け再試合のルールを作ったのは板東英二
 それまで無制限だった高校野球の延長に、「18回引き分け再試合」というルールができたのは第40回夏の大会(1958年)のこと。このルールを(実質的に)作ったのは、あの板東英二である。
 現在はタレントで活躍する板東は、当時徳島商のエース。同年行われた春季四国大会の高知商戦で板東は延長16回を完投。雨で1日おいた決勝の高松商戦もまた延長に入り、25回・5時間27分で決着した。板東はこの試合も完投(!)したが、スタミナには自信のある板東もさすがに後半はバテて、結局敗れてしまった。
 この2試合を見た四国高野連の役員が、日本高野連に「健康管理上まずいのではないか」と延長の規定を進言。検討の結果2試合分が限度ということになり、「延長18回で打ち切り。同点の場合は再試合」というルールが採用されることになった。そしてその適用第1号となったのが当の板東(準々決勝・対魚津戦)だったのは偶然か運命か。
【補足トリビア】
(1)板東はこの夏の大会で83奪三振を記録し、現在も大会記録。翌年中日に入団して、11年間で77勝を挙げた。
(2)延長規定は第82回夏の大会(2000年)から15回に短縮された。これは第80回(98年)の横浜×PL学園の延長17回で完投した横浜・松坂大輔投手の翌日の疲労がきっかけ。

[40]沖縄初出場の首里は甲子園の土を持って帰れなかった
 第40回夏の大会(1958年)、それを記念して初の1県1代表を採用。さらに沖縄からも首里が初出場したが、記念の甲子園の土を持って帰ることができなかった。
 沖縄は戦前、そして戦後はアメリカ占領下ながら第34回(52年)から予選に参加していたが、第40回の首里が初めての沖縄勢の甲子園出場となった。首里は初戦で敦賀と対戦。惜しくも0-3で敗退した。首里ナインは記念に甲子園の土を袋に詰めて沖縄へ帰ろうとしたが、植物防疫法に引っかかり、那覇港の税関で甲子園の土が没収され、検疫官によって海に捨てられてしまった。沖縄はまだ外国だったからである。
 このことを知った当時日本航空のスチュワーデスだった近藤充子さんが、石なら防疫法に引っかからないということで、桐の箱に甲子園の石を詰め、首里ナインに贈った。沖縄の現実を痛感させられた事件だったが、土よりも大きな石が首里ナインの甲子園の思い出を大きくしたに違いない。
<参考ページ>友愛の碑(首里高校)
【補足トリビア】
(1)そのときの石は首里高校校庭に建てられた「友愛の碑」の台座部分にはめ込まれている。

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