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甲子園&高校野球・トリビアの蔦 THP blog・甲子園特集

[1〜20]甲子園80年トリビアPart1 [21〜40] [41〜60] [61〜80] [81〜100]
[1]甲子園球場はかつてタヌキやキツネの棲家だった
甲子園周辺地図  甲子園球場がある付近はかつて、近くを流れる武庫川から分かれた枝川と申川(さるかわ)という2つの川が流れる川原だった。
 20世紀初頭、武庫川は大雨が降るたびに洪水を起こし、周辺住民を悩ませていた。そこで、兵庫県は1920年に洪水対策として、武庫川の改修工事に着手。その工事により枝川と申川は埋め立てられることになった。広大な埋立地となった一帯は、しばらくタヌキやキツネの棲家となっていたという。22年、阪神電鉄は沿線開発のため、この土地の払い下げ契約を締結した。
 翌23年、当時鳴尾球場で行われていた第9回全国中等学校優勝野球大会の準決勝で、押し寄せた観客がグランドになだれこみ、試合が中断する事件が起きた。これに対応するには、新たに大規模な新球場を作らなければいけない。阪神はこの土地に新球場を作ることを決断。同年11月28日、開発の第1弾として新球場の建設計画がスタートを切ったのである。
【補足トリビア】
(1)阪神電鉄の開発計画は当初本線北側に住宅地、南側にレジャー施設をそれぞれ整備するものだった。
(2)新球場は南側の旧枝川と旧申川の分岐点付近に建設された。(右上地図参照)

[2]甲子園球場の建設には牛が大活躍した
 [1]のようにして決定した新球場の建設。この球場の建設には牛が大きく貢献した。
 新球場の完成は、1924年の夏の大会に間に合わせなければならなかった。起工式は同年3月11日だったので、期間は5ヵ月弱。建設は連日昼夜兼行で行われた。しかし、当時はブルドーザーなどの重機はない時代。そこで牛がローラーを引いて、グラウンドの土をならしていた。一方、スタンドなどのコンクリート構造物は、川原跡ということで砂や砂利が豊富にあったため、スムーズに造られていった。
 こうした人牛の協力のかいあって、新球場は夏の大会直前の8月1日に竣工。この年の干支が「甲子(きのえね)」だったので、「甲子園大運動場」と名付けられた。中堅118m、両翼109.7m、左右中間は128mという野球はもちろん、他のスポーツにも対応した当時、いや現在でもデラックスな「東洋一の大球場」がここに完成したのである。
【補足トリビア】
(1)「甲子園」という名前はこの球場で初めてつけられ、周辺の土地一帯も甲子園という地名がつけられた。
(2)甲子園球場は当初、前年完成したニューヨークのヤンキースタジアム(旧)を参考にするつもりだったが図面が入手できず、同じニューヨークのポロ・グラウンズを参考に設計した。

[3]甲子園初の夏の大会 初日はガラガラだった
 甲子園で初めての開催となる第10回全国中等学校優勝野球大会は、1924年8月13日に全国17代表を集めて開幕したが、その初日はガラガラだった。
 前年までの会場だった鳴尾球場は、木製の仮設スタンドが10段ほどで、収容は5000人。一方甲子園は内野50段、外野20段。収容は鳴尾の10倍以上の8万人のキャパシティがあった。当時の関係者は、いくら中等野球が人気があるといえども、甲子園が満員になるのは10年はかかると考えていて、実際、初日と2日目はネット裏以外は空席だらけだった。
 ところが3日目。この日は土曜日で地元校も登場するとあって、朝から観客が詰めかけて、あっという間にスタンドは内外野びっしり埋まってしまった。そのため、阪神電鉄の大阪・神戸両駅では「満員につき来場お断り」の看板が出された。翌日の日曜日も満員になり、完成当初の心配は完全に吹き飛んでしまった。
【補足トリビア】
(1)甲子園球場は鳴尾球場の貧弱な収容の反省から、「キャパ最優先」で作られたために、このような球場になった。収容人数は「鳴尾球場並みに詰めれば」10万人収容も可能だったらしい。
(2)とはいえこれでもキャパが不足してしまったために、1929年に内野席を増設(アルプススタンド)、36年に外野席を改築・増設した。これは後述する。

[4]甲子園の土は最初淡路島の土を使っていた
 甲子園の内野グラウンド全体を覆う黒い土。野球選手なら誰しもが踏みしめることを憧れる甲子園の土は球場職員の汗と涙の結晶でもある。完成当初は淡路島の土を使っていた。
 元々阪神間の土は白っぽく、これでは選手や観客の目に良くないということで、職員は黒い土を求めて奔走した。最初は尼崎の蓬川(よもがわ)の土を使おうとしたが、乾くと白くなるのでダメ。次に神戸の熊内(くもち)の土を持ってきたが粘りがなく、プレーに適さないことがわかった。
 ついには淡路島から土を買って熊内の土と混ぜ、さらに職員自らが走塁やスライディングを何度もしてテストした結果、ようやくプレーに適した黒い土を作りあげることができた。淡路島の土は赤かったので、少し赤黒い色をしていたという。
【補足トリビア】
(1)淡路島の土は輸送費を含めて、当時のお金で6万円かかった。
(2)現在は中国福建省の白砂と、九州の火山灰中の黒土をブレンドしたものを使っていて、季節に応じて砂と土のブレンド比を変えている。
(3)甲子園の土は5年に1度すべて取り替えられる。

[5]甲子園のグラウンドにガソリンをまいて火をつけたことがある
 [4]のようにして誕生した甲子園の土は、当初水はけが非常に悪く、大雨があればグラウンドに水たまりができて、試合ができなくなることがしばしばだった。その対策に、なんとガソリンをまいて火をつけていたことがある。
 第14回夏の大会(1928年)準決勝の松本商(現松商学園)×高松中戦。前日まで2日連続で台風で順延になっていて、グラウンドは水たまりだらけ。このままでは試合ができないのでガソリンをまいて火をつけて、グラウンドを乾かして試合開始にこぎつけた。
 火をつけると確かにグラウンドは乾くが、それは表面の部分だけ。しかも土を痛めるので、現在はそのような方法は採られていない。しかし、50年頃までは(パフォーマンスも兼ねて?)しばしば用いられたようだ。職員は頭を悩ませながら試行錯誤を繰り返し、現在の水はけのいいグラウンドを作り出したのである。
【補足トリビア】
(1)松本商×高松中戦は結局5回雨のため、中等野球初のコールドゲームとなり、3-0で松本商が勝っている。
(2)この他にもシートをかけたり、グラウンドを周辺の地面より高くして水が流れやすくするなどの対策がとられていた。
(3)現在採られている対策の一つは、[89]を参照。

[6]アルプススタンドの名付け親は岡本太郎
 高校野球では華やかな応援の舞台として、すっかりおなじみのアルプススタンド。1929年に誕生したその「アルプススタンド」の名付け親は、あの画家・岡本太郎だった。
 新スタンドができた年の第15回夏の大会。父親で漫画家の岡本一平と甲子園に観戦に来ていた当時18歳の太郎は、白い服を着た観客で埋まるスタンドを見て、雪で覆われた山脈を連想。「まるでアルプスのようだ」と呟いた。
 当時朝日新聞で、甲子園の一コマ漫画観戦記を連載していた一平は、翌日の漫画に添えて「そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ」と太郎の言葉を引用して掲載。これがきっかけで、新スタンドはアルプススタンドという愛称で親しまれるようになった。
【補足トリビア】
(1)アルプススタンドは中等野球人気のさらなる過熱による、甲子園の収容不足を補うため、一部低かった内野スタンドを50段の鉄筋コンクリート製に改築したもの。これにより収容人数は約8000人増えた。
(2)アルプスの愛称は、朝日新聞記者で登山家の藤木九三によりつけられたという説もある。
(3)正式には「東(西)スタンド」で、2001年までプロ野球開催時はアルプス席と呼んでいなかった。

[7]かつてアルプススタンドにも屋根がついていた
アルプスまで覆っていた鉄傘(1934)  甲子園のおなじみ設備の一つである内野の大屋根。戦前はアルプススタンドすべてを覆っていたことがある。
 甲子園の大屋根は最初は鉄製の「鉄傘」で、1924年の完成時から存在。はじめは50段の内野部分の全体を覆っていた。その後29年にアルプススタンドを増設。その翌々年の31年にアルプスにも鉄傘がつけられた(写真右)。甲子園の内野スタンド全部、全体でも3分の2近くが鉄傘で覆われていたことになり、かなり壮観な光景だった。
 しかし第2次世界大戦で鉄資材が不足し、自慢の鉄傘は43年に軍に供出。大屋根は51年にジュラルミン製で復活したが、範囲はネット裏だけだったので、アルプススタンドの屋根はわずか12年間しか存在しなかった。
【補足トリビア】
(1)甲子園の大屋根は多目的スタジアムとしての性格上、雨天時の観戦を考量して設置された。また、日よけにも重点を置かれていた。
(2)銀傘は82年にアルミ合金製にふきかえられた。したがって、現在のは3代目である。
(3)銀傘は2009年の改修で、再びアルプス以外の内野全体に架け替え・拡張される。

[8]改築された外野席の愛称はヒマラヤスタンド
 甲子園の外野スタンドは1936年に現在のものに改築されたが、かつてヒマラヤスタンドという愛称があった。
 甲子園は29年にアルプスを増設したが、さらに過熱する中等野球人気の前に依然収容不足に悩まされていた。そこで、土盛りで建設された外野スタンドを50段の鉄筋コンクリート製に改築、さらに広すぎたグラウンドも合わせて見直すためにスタンドは扇状になって36年冬に完成。これにより甲子園は完全なスリバチ型の球場になった。
 このとき、大阪朝日新聞紙上で新外野スタンドを、アルプスに対抗して「ヒマラヤスタンド」という愛称にしようと提唱したが、当時すでに有名になっていたアルプスには敵わず、いつの間にかヒマラヤと呼ぶ人はいなくなってしまった。ヒマラヤスタンドは甲子園版「E電」と言ったところか。
【補足トリビア】
(1)バックスクリーンも外野スタンド改築に合わせて設置された。
(2)34年に完成していたスコアボードは新外野スタンドよりも高さが低く、かつ真ん中くらいにあったので、84年の改修まで外野の一部では全くスコアボードが見えなかった。

[9]かつて甲子園には煙突が立っていた
 かつて甲子園の3塁アルプスとレフト側外野スタンドの間に、煙突が立っていた。かなり最近まで存在していたので覚えている方も多いと思う。
 この煙突は、1932年に3塁アルプス下に25mの室内温水プールを作ったとき、ボイラーで水を焚く際に出る煙を排出するために作られたものである。しかし、当時としては珍しかった温水プールも、37年に甲子園脇にできたプールによって43年には廃止され、煙突本来の役目としては短期間しか使われなかった。
 その後も煙突だけは残り、戦後は広告用スペースとして使用。蔦も絡まって甲子園の風景に溶け込んでいたが、88年に取り壊された。
【補足トリビア】
(1)温水プールのあった3塁アルプス下は現在室内練習場になっているが、温水プール時代の柱などはそのまま残っている。
(2)戦前はこの煙突によじ登って観戦する猛者もいた。

[10]甲子園の真横にはかつて路面電車が走っていた
 甲子園の北側には阪神電鉄が走っているが、昔は甲子園の真横を路面電車が通っていたことがある。
 現在の甲子園駅は、甲子園と同じ1924年8月1日開業。最初は臨時駅扱いだった。今でもそうだが、中等野球のときは球場に人が押し寄せるので、それをさばく臨時列車を走らせる必要があった。そこで甲子園駅から甲子園の横(東側)に伸びる引き込み線を引いた。この引き込み線は開発が続く甲子園周辺の交通の便をはかるため、海側(のちに山側にも)に延長。本線の甲子園駅の真下に駅が設けられ、26年7月1日に路面電車の阪神電鉄甲子園線として開業した。
 長く甲子園周辺住民の足として親しまれたが、75年5月6日に甲子園線は全線廃止。廃線跡は道路に変わり、現在は阪神電鉄のバスが同じルートで運行されている。
【補足トリビア】
(1)阪神電鉄は甲子園線の他に国道線、海岸線、北大阪線の路面電車を運行していたが、現在はいずれも廃止されている。

[11]甲子園名物カレーライス 最初はコーヒー付きで30銭
 甲子園名物メニューの1つに必ず取り上げられるカレーライス(写真右)。最初はコーヒー付きで30銭だった。
 カレーライスは甲子園ができた1924年当時からあるメニュー。新鮮な野菜と果物を丹念に煮込み、スパイスを効かせながらもリンゴの甘味が絶妙にマッチしたその味は、現在も全く変わっていない。
 そのカレーライス。24年当時の値段はコーヒーつきで30銭。もりそばが10銭、うな重が40銭だったのでやや高めだった。しかし試合のインターバルのときなどは、売店に行列ができていたという。現在も1日約5000食、日によっては1万食も売れるときがあり、甲子園名物メニューの座をずっと保ち続けている。
【補足トリビア】
(1)現在はカレーライス500円、コーヒー300円。またお土産用に2パック525円(いずれも税込)で売られている。
(2)約10年前、激辛ブームのころカレーの味を辛くしたら苦情が殺到し、すぐ元の味に戻したという。

[12]甲子園のスタンドは昔火事が名物だった
 [5]で甲子園のグラウンドに火をつけたトリビアを紹介したが、スタンドの方も昔はよく燃えていた。
 完成当時の甲子園は、現在のアルプスと外野の座席が土盛りになっていて、そこに木の板を渡して座席にしていた。観客は板に新聞紙を敷いて座り、煙草を吸いながら観戦するのが一般的なスタイルだった。
 木の板、新聞紙、煙草。この組み合わせはとても危険。煙草の火がうっかり新聞紙に引火し、さらに板に引火してしまうと、たちまち火事になってしまう。そのたびに試合を中断して、職員が消火活動に当たっていた。あまりに多いので、一種の名物になっていたという。それでも今では考えられないほどのどかな話だったようだが。
 この“名物”もアルプススタンドの完成、外野席の改造で鉄筋コンクリート化されてからは見られなくなった。
【補足トリビア】
(1)球場の火災で有名なのが1951年8月19日の中日球場(現ナゴヤ球場)の火災。これも煙草の不始末から木造スタンドに引火して起こったもの。
(2)甲子園は現在、喫煙所以外の場所ではすべて禁煙である。

[13]甲子園周辺で空き箱が飛ぶように売れたことがある
 甲子園の完成に伴い、さらに高まった中等野球熱。甲子園周辺でもそれに便乗しようと、さまざまな珍商売が繰り広げられたが、その一つに「空き箱販売」があった。
 主にこの箱を売っていたのは、鳴尾村(当時)の農家。不要になったミカン箱やビールの空き箱を、試合を見に来た客に球場の外で1個50銭で売っていた。中には時間帯によって、細かく値段を変えていたところもあったという。
 ではこの箱を何に使うのか。外野席が満席で最後列で立ち見をする人が、箱を踏み台代わりにして、ちょっとでもよく試合が見られるようにするものである。これが意外に好評で飛ぶように売れ、箱自体も元手が不要とあって、農家の人にとってはちょっとした小遣い稼ぎになったそうである。
【補足トリビア】
(1)箱は帰るときに大抵そこに置きっぱなしになっていたので、試合後農家の人が回収して使い回ししていた。
(2)他にも甲子園横の高い松の木にはしごをかけて、お金を取って登って観戦させていた農家もあった。

[14]かつて甲子園の隣に夏の大会優勝校があった
 昔甲子園のすぐ隣に、夏の大会優勝経験校という実績を持った高校があった。
 その高校とは甲陽学院。甲陽中時代の戦前に夏4回、春8回出場。第9回夏の大会(1923年)には優勝。第24回夏の大会(38年)でも、のちに大毎(現ロッテ)で活躍する別当薫を擁してベスト4に進むなど、戦前の兵庫県では強豪校の一つだった。
 甲陽学院は17年、甲子園の地に私立甲陽中として開校した。場所は甲子園駅南口を出てすぐ右手。現在のダイエーやノボテル甲子園があるところがそうだった。しかし、騒音公害など周辺環境の悪化が原因で、78年に同じ西宮市の苦楽園に移転。チームだけでなく、場所自体も甲子園から遠ざかってしまった。
【補足トリビア】
(1)甲子園時代の甲陽学院のグラウンドは、甲子園に出場したチームの練習場所としても用いられていた。
(2)ノボテル甲子園の敷地内には、「甲陽学院発祥之地」の記念碑が建っている。

[15]戦時中、甲子園のグラウンドは芋畑になった
 第2次世界大戦が始まると中等野球も中断。さらに戦乱が激しくなると、甲子園も軍事施設に変わり、グラウンドは芋畑へと変わった。
 戦時中若者は次々に徴兵され、野球どころではなくなっていた。甲子園も1943年8月に鉄傘を軍に供出したのを皮切りに、“軍事施設”としての建物となり、スタンドには高射砲を設置。外野スタンド下は軍需工場、1塁側アルプス下の室内練習場は航空用燃料の倉庫となった。
 さらに45年4月には、外野グラウンドを近畿軍需輸送隊のトラック置き場、内野グラウンドを食糧用の芋畑に充て、野球が完全にできなくなってしまった。当時トラックの燃料には木炭を使用していたため、グラウンドはみるみる荒れ果てていったという。
【補足トリビア】
(1)戦前最後の甲子園での野球の試合は、45年1月1〜5日の職業野球正月大会。阪神・産業(現中日)と阪急(現オリックス)・朝日(現横浜の一部)の各連合チームによる試合だった。
(2)甲子園周辺の鳴尾球場、南運動場などの施設も戦時中に取り壊され、航空機の工場になった。
(3)芋畑は終戦当日からすぐに整備。2週間後には元のグラウンドに復元された。

[16]甲子園に第2次世界大戦の傷跡が残っている場所がある
 第2次世界大戦で大きな痛手を被った甲子園。今もそのときの傷跡が残っている場所がある。
 1945年8月6日。ちょうど広島市内に原子爆弾が落とされたのと同じ日、西宮でも連合軍による大規模な空襲に見舞われた。周辺の民家はほぼ焼き尽くされ、甲子園もグラウンドに5000発もの焼夷弾が突き刺さり、三日三晩燃え続けたという。
 その空襲のときにできた傷跡が今も残るのは、球場正面にある役員・関係者出入り口の鉄扉である。これは機銃掃射の弾痕で、数ヵ所がへこんでいるのがはっきりとわかる。戦後60年を過ぎた今、この鉄扉は“生き証人”として無言で戦争の悲惨さを伝えている。
【補足トリビア】
(1)壊滅的な被害だけは逃れた甲子園は、戦後すぐの45年10月3日に米軍が接収。接収中は兵舎として活用された。
(2)接収が解除されたのは47年1月10日。全面接収解除は54年3月31日のことである。

[17]阪神パークの象が応援に持ち込まれたことがある
 甲子園のアルプススタンドでの応援はバラエティーに富んでいて楽しませてくれるが、かつて本物の象が持ち込まれたことがある。
 第23回選抜大会(1951年)1回戦・鳴尾×静岡城内戦の試合前。甲子園のすぐ近くにある地元高・鳴尾には大応援団が詰め掛けていた。ただでさえ大騒ぎな所に、突如現れたのは本物の象。なんと鳴尾の応援団長が、近所の阪神パーク(現在は閉園)から象の“アキコ”を連れて来たのだ。さすがにアルプスには入れられないので、ラッキーゾーン内に入れて鳴尾応援団を盛り上げた。
 実はこれは球場や主催者に話を通していなかった。アキコは試合が始まらないうちに強制退去。主催者は「持ち込むほうも持ち込むほうだが、貸す方も貸す方だ」と大激怒。以降大きな“もの”を持ち込んでの応援は禁止されている。
【補足トリビア】
(1)この試合で鳴尾・野武貞次投手は、静岡城内に対してノーヒットノーランを達成した。センバツ史上5人目。
(2)アキコは50年にタイから来たアジアゾウ。2003年3月31日の阪神パーク閉鎖後は市原ぞうの国を経て、勝浦ぞうの楽園で余生を送っていたが06年7月24日に老衰のために57歳で死去。人間でいえば100歳相当の大往生だった。

[18]スコアボードの大時計は球場接収解除の記念でつけられた
 甲子園ではおなじみのスコアボード。その頂上に立つ大時計は常に正確な時を刻んでいるが、この時計は米軍の接収解除の記念でつけられたものである。
 先代の同型のスコアボードが完成したのは1934年。この当時まだ時計はなく、同じ位置にはボールを中心にしたエンブレムが飾り付けられていた。
 その後、第2次世界大戦を経て甲子園は米軍に接収。47年グラウンドとスタンドの接収解除を経て、54年3月31日に全面接収解除された。このときエンブレムに代わり、おなじみの大時計が設置され、第26回選抜大会(同年)から頂上で高校野球やタイガースの熱戦を見届けながら現在に至っている。
<参考ページ>THP内 甲子園スコアボード史 
【補足トリビア】
(1)77年から大時計下には「SEIKO」(セイコー)の社名が入り、2001年からは「CITIZEN」(シチズン)に替わった。

[19]甲子園名物カチワリはかつて舟型の容器に入れていた
 ぶっかき氷を袋に詰めたカチワリ(写真右)といえば、頭に乗せるも良し、水分補給するも良しと夏の甲子園には欠かせない定番アイテムである。そのカチワリはかつて舟形の容器に入っていた。
 カチワリが登場したのは戦後すぐ。最初は、カキ氷をたこ焼きを入れるような舟型の容器に入れて売っていた。しかし、炎天下で氷が溶けると、こぼれやすい舟形の容器は使いづらかった。これに代わるいい容器はないか。
 ある日、金魚すくいのビニール袋を見た店主。これだと、氷が溶けてもこぼれにくい。ストローも挿せる。「これだ!」。こうして1952年、現在おなじみのカチワリが誕生。以来半世紀以上に渡り、夏の甲子園の名物として親しまれている。
【補足トリビア】
(1)カチワリは1個200円。天候によって売り上げは極端に変化するが、普通の天候だと1日平均5000個は売れる。
(2)カチワリは寒い日は当然売れないが、風の強い日も氷が早く溶けて商品にならないので、風のない炎天下が一番売りやすいという。

[20]ネット裏の記者席をガラス張りにする計画があった
 甲子園の記者席はネット裏のど真ん中にあり、特に仕切りはないのだが、これをガラス張りの部屋にする計画があった。
 新聞記事を書いたり、テレビ・ラジオの実況をする記者席が現在の位置に移ったのは1957年。他の球場のようにブースという概念がなく、ほとんど観客と同じ目線で試合を見る感じになっている。当然吹き晒しなので冷暖房はない。
 2000年頃、この記者席をネット裏最上段に移して、ガラス窓で仕切り冷暖房完備の部屋にするのを、球場側が提案したことがある。わかりやすく言えば、競馬場の指定席のような感じである。しかし、記者側がこれを拒否した。「確かに夏は暑いが、吹き晒しであるがゆえの一体感は甲子園だから味わえる」からである。記者も巻き込んだ一体感、それが甲子園の魅力の1つである。
【補足トリビア】
(1)甲子園完成当初はネット裏最前列(今の中央ボックス席)に記者席があった。当初は大屋根以外の屋根もなく、かなり環境が悪かったらしい。
(2)2009年の改修で、ネット裏最上段にはガラス張りの「スイート席」が新設される。記者席もネット裏上段に移動する予定。

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