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★ナイター設備が招いた手動化
1956年、甲子園球場に夜間照明設備が完成して、ナイターでの試合が可能になった。しかし、この設備でスコアボードに困った問題が起きてしまった。前章にも書いたとおり、甲子園のスコアボードは機械で自動表示ができるというものだった。その機械に雨が入らないように文字板のところにはガラスでカバーをしていたのだが、ナイターになるとそのガラスが照明で反射してしまい、文字が見にくくなってしまったのである。
センバツの作新学院×八幡商戦
延長18回引き分け再試合(1962)
やむなくガラスカバーをはずしたのだが、今度は雨が入って機械が使えない心配が出てきた。せっかくの自慢の設備だったが、機械による自動表示を諦めざるを得ず、人間による手動表示へ転換することになった。ただ、一部は引き続き遠隔操作をできるように、57年に打順とボールカウント、ヒット・エラー表示を電球による表示に改造している。
さらに58年に右側のイニングスコア部分を改造し、上段が12回までのイニングスコア、下段がその日の試合の結果(プロ野球なら他球場の経過)の表示欄に変わった。これに伴い仮に延長が12回を超えた場合、1回部分に12回までの合計、3回部分から13回以降のイニングスコアを表示する方式に変更している(なお、この年の夏の大会から延長は18回までと定められた)。これら一連の改造でほぼ現在のスコアボードと同じ形式になった。★スコアボード裏方の苦労
手書きのスコアボードには当然裏で操作する人がいる。春の大会はまだいいが、夏の大会は灼熱地獄。狭い密室で冷房はなく、扇風機と上部にあった出入口の扉だけが頼りなのだから、どれほどの暑さか想像できるだろう。もちろん40℃は軽くオーバーしていた。
スコアボードの裏側。選手名が
書かれた板をセットする(1983)
スコアボードで使う選手名の板は重さ7キロの鉄板。そこに名前を石灰で書きこむ。それが1回の大会で約400〜700人分である(ただ、同じ苗字やプロ野球でも使う板は使いまわしていたようだが)。重くて、しかも雨が降ると石灰が溶け出してしまう。鉄板は79年にベニヤ板に変わったが、それでも大変だったと思う。地元の広告看板業者が1回やっただけで悲鳴を上げて撤退したというが、こういう作業を考えれば分かる気がする。
しかし、こういう裏方の人が苦労があったからこそ、スコアボード自体はもちろん甲子園球場が今でも威厳を保ち、愛されていると言っていい。無人の電光スコアボードになった現在でもそれは忘れてはいけないだろう。★2代目スコアボード50年の歴史に幕
57〜58年に大規模な改修を受けたスコアボードだったが、その後はポールが増設された程度であまり大きな変化はなく、球児が繰り広げる名勝負の数々を外野中央から見つめつづけていた。
2代目スコアボードでの高校野球
ラストゲームPL学園×横浜商(1983)
開場50年をこえた76年、甲子園球場を現代の設備にふさわしい球場にするための近代化工事が始まり、老朽化したコンクリートの補強、スタンドの座席の改造、ネットの張り替え、芝生の張り替えなど種々の工事がなされた。工事はスコアボードに及び、79年にバックスクリーンを改造。そしてついにスコアボード自体の改修が決まった。設備の老朽化も決め手になったと思われる。
2代目スコアボードの最後の高校野球は83年の夏の大会で、1年生の桑田・清原両選手を擁するPL学園が優勝した。ちなみにその大会で最後にスコアボードに表示された選手は、桑田投手をリリーフしたPL学園の藤本投手だった。11月に阪神×巨人OB戦を最後にスコアボードは取り壊され、50年に及ぶ歴史に幕を閉じた(なお、その年の甲子園ボウルはバックスクリーンに建設中の新スコアボードがあっただけで、実際には何もない状態で行われている)。
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