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甲子園スコアボード史 THP blog・甲子園特集
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★“軍艦スコアボード”見参!

2代目スコアボードの初年度
外野席はまだ低い(1934)
 1934年春、甲子園のスコアボードが新装した。2代目は東洋一の球場にふさわしいスコアボードで、外観は軍艦を正面から見たような形。左側にメンバー表示、中央部は上からエンブレム、ボールカウント(右からストライク、ボール、アウト)、判定表示欄、審判名欄(右から球審、塁審3人)、右側は18回まで表示できるイニングスコアである。位置も外野席中央最後部に移り、センターポールと統合された。
 このスコアボードのすごいところは、打順や得点をすべて遠隔操作できることであった。現在の電光掲示板なら当たり前の話だが、ひとたびセットしておけばあとは機械が勝手に操作してくれるというのは当時画期的な設備であった。設計したのは阪神電車の車両部、つまり電車のメカニズムに携わる人たちで、電車の自動ドアの仕組みをスコアボードの操作に応用したという。手書きなのに全自動、他の球場でこういう仕組みは聞いたことがない。
 さて新装されたスコアボードだが、1回だけあの「継ぎ足し」が行われている。34年春の享栄商×徳山商戦が延長19回にもつれこみ、19回の部分だけが増設された。ただ、それ以降は18回をこえる延長試合はなく、58年にイニングスコアの表示方法が変更されたために「継ぎ足し」はなくなった。

★戦争の足音、そして中断

戦時体制下、スコアボードにも
戦時スローガンが踊る(1939)
 36年、外野席が50段に増設された。しかし、スコアボードはその位置を変えなかったために、高くなった外野席よりも低くなり、位置も外野席の中段付近になってしまった。この状態は84年に新装されるまで続くことになる。なおこのとき、同時にバックスクリーンも設置されている。
 37年に日中戦争、39年に第二次世界大戦が開戦し、日本は戦時体制の色を濃くしていった。中等野球大会もセンバツの行進曲は軍歌、試合開始の合図は進軍ラッパなど戦時色が強くなり、39年夏にはスコアボードに「心身鍛錬・総力興亜」というスローガンが掲示された。
 40年代に入り戦時色は一層濃くなり、当時の敵国・アメリカ発のスポーツである野球自体にも規制がかかり始めた。41年、夏の大会が予選で中止。その年の12月に太平洋戦争が始まり、中等野球も中断を余儀なくされたのである(ちなみに42年夏にも甲子園で中等野球大会が行われているが、文部省の主催だったために夏の大会としてはカウントされていない)。

★戦後の復活、わずかにアメリカ色

戦後になり、一部の表記が
改められたスコアボード(1949)
 45年、太平洋戦争が日本の無条件降伏で終結。甲子園球場はアメリカ軍に接収され、兵隊の宿舎になった。そのため、戦後初の46年の夏の大会は西宮球場で行われた。甲子園の接収は翌47年1月に解除。戦時中芋畑になったり、空襲を受けたりと荒れ放題の球場を急ピッチで整備して、その年のセンバツに間に合わすことができた。
 後楽園球場のスコアボードは戦災の被害を受けたが、甲子園の方は無事だった。そのスコアボードも戦後変化した。まず47年、イニングの文字が漢数字からアラビア数字になり、ボールカウントの文字が「ストライク」→「S.ストライク」とアルファベットの頭文字をつけた表記に。さらに49年には右からだったボールカウントと審判欄の並びが逆の左からの表記になり、占領下で若干のアメリカ色?のスコアボードになった。
 52年、戦争で軍に供出していた屋根がアルミニウム製で復活。スコアボードは戦後初めて塗り替えが行われてリフレッシュ。左側の上部に漢数字で打順が入った。54年、中央部の一番上のエンブレムに代わり大時計が登場。日本と同じように、甲子園球場も戦争の痛手から徐々に立ち直っていった。

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