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甲子園スコアボード史 THP blog・甲子園特集
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★デラックス球場誕生

甲子園完成当時のスコアボード
仮設で得点表示しかなかった(1924)
 1924年8月1日、武庫川の支流の枝川と申川(さるかわ)を埋め立てた土地に“東洋一の大球場”甲子園球場が完成した。内野席50段、外野席30段、野球以外のスポーツも可能な多目的グラウンドがある球場は今でこそ珍しくなくなったが、まだ大正時代の当時の日本では破格のデラックスな球場の誕生である。
 そんな球場だから、さぞかしスコアボードもすごいものだろうと考えてしまうが、最初この球場にスコアボードはなかった。というのも、甲子園はその年の夏の中等野球(当時)大会に間に合うよう、工期わずか5ヵ月弱という突貫工事で作った球場のために、スコアボードまで手が回らなかったのである。結局その年は仮設のスコアボードでしのがざるを得なかった。正式なスコアボードができたのは翌25年になってからである。
 初代のスコアボードは外野席中央よりややライト側に作られた。スコアボードは木造で、左から打順と守備位置、ボールカウント、イニングスコアと並んでいたが、選手名表示などはない非常に簡素なものだった。同じ年の夏に外野席中央にセンターポールが作られた。当時はスコアボードとセンターポールは別のところにあったのである。

★明朝体のスコアボード

初代スコアボードのメンバー表示
選手名欄を上に継ぎ足している(1933)
 その後、このスコアボードに継ぎ足しをしていくかたちで、選手名、審判の表示欄を追加。30年に左端にヒットやエラーの記録を表示する欄が完成して、一応スコアボードとしての体裁が整った。他の球場の状況は不明だが、これでも当時としては最高の設備だったのではないかと思われる。
 最初の頃のスコアボードの字はいかにも手書きという楷書体だったが、このころから選手名などの字は明朝体で書かれるようになった。はっきりとした理由は分からないが、150メートル以上離れたバックネット裏からでも明朝体なら字が見やすいためだろう。新聞が明朝体を採用しているのと同じ理屈である。この明朝体は後のスコアボードにも引き継がれて、甲子園スコアボードの伝統の一つとして今も生き続いている(ちなみに「3」が「ろ」のような字なのも同じ理由だと考えられる)。

★大延長戦!板を継ぎ足せ!

明石中×中京商戦のスコアボード
右へ板を18個継ぎ足している(1933)
 初代スコアボードのイニングスコアは16回まであった。当時の中等野球の延長戦は無制限。もし17回に入ったらどうするのか? 答えは今では考えられない話だが「継ぎ足す」のである。26年夏、静岡中×前橋中戦が延長19回の大試合になり、16回の右側にスコアを増設してしのいだが、7年後にもっとすごい試合が待っていた。
 33年夏の準決勝、明石中×中京商戦はお互い一歩も譲らない投手戦。0-0のまま延長戦に入り、16回もあっという間に過ぎた。7年前同様「継ぎ足し」の出番である。最初は予備で用意していたであろう「0」を右側に継ぎ足すことで用が足りた。しかし、ゼロ行進は止まらない。予備の「0」も底をつき、別の黒い板に白いペンキで「0」を書きこんで釘で外野の壁に打ちつけて掲示を続けた。
 それでも試合は「0」を重ねていく。しかも速いペースで進むので、ペンキ書きと打ちつけが追いつかない。最終的には球場係員が「0」の板を持って外野の塀に並ばないと追いつかなくなってしまった。果てしないゼロ行進は延長25回、中京商がサヨナラ勝ちしてストップした。試合が終わったとき甲子園のスコアボードには49個の「0」、そして「1」が並んでいた。
 いかにもスコアボードの見てくれが悪くなってしまったこの試合がきっかけとなり、スコアボードの改修が決定。東洋一の球場にふさわしいスコアボードが翌年誕生するのである。

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